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【Whatever SHIMOGAMO入居者紹介】 アロムコンサルティング株式会社 福田 秀樹(ふくだ ひでき)

2024.3.28

Whatever SHIMOGAMO入居者紹介 アロムコンサルティング株式会社 福田 秀樹(ふくだ ひでき)

Whatever Shimogamo入居者紹介⑦

Whatever Shimogamoの入居者様を紹介しております。

本記事では、アロムコンサルティング株式会社の

福田 秀樹(ふくだ ひでき)さんを紹介します。

 

幼少期~中学期

福田さんは徳島県で生まれ、その後は大阪・寝屋川に移り住み、幼少を大阪で過ごします。

幼少期は父親の影響が大きくあったといいます。

お父様は、福田さんが生まれた時、体を悪くしており入退院を繰り返していました。

そのため、ご両親の地元の徳島で出生し、出生後まもなくは、徳島県の方で育てられます。

幼稚園は仏教系の園に通い、念仏を唱えたり、大きな象の台車を引いてお参りをしたりと、仏教系の行事が多く、どの行事も楽しかったと記憶しています。

福田さんの通っていた幼稚園

福田さんの通っていた幼稚園

 

 

小学校は公立校に進学します。

小学校の時、どんな子供だったのか尋ねると、「落ち着きがない子供だったね。」と、朗らかに答えました。

この落ち着きがないという言葉は、通知表の先生記入の生活面の欄に中学校卒業まで欠かすことなく書かれ続けたそうで、自他ともに認める落ち着きのない子供だったようです。

小学校の頃は、よく家族でキャンプに行っていました。

というのも、お父様がテキスタイル(服飾関連)のデザイナーをしており、サラリーマンではなかったためまとまった休みや平日の休みが取りやすく、よく遠方に連れ出していました。時には、寝屋川から自転車で京都まで連れて行ってくれたそうです。

「いろいろな所へ連れて行ってくれ、とても楽しかった。良くも悪くも父親の影響を受けてきたなぁ。」

 

価値観の形成や幼少の過ごし方はお父様の影響を多く受けて育ちます。

常時体調を崩していたお父様の影響もあり、進路決定にも大きく影響を受けます。

お父様は何でも自分で創造することが大好きな人で、サラリーマンには向いていない人でした。これも福田さんの人生に大きく影響を与えます。

 

小学校高学年になり、バスケットボールに興味を持ち始めます。バスケットボールを始めたきっかけもお父様でした。

お父様はバスケットボールで進学・就職を行い、福田さんが幼少の頃から練習時には、一緒に体育館に連れて行ってくれました。

お父様からバスケットボールを教わったことは一度もありませんが、バスケットボールをするお父様の背中を見て自分もバスケットボールをしたいと思い、中学でバスケットボール部に入ります。

バスケットボールは、始めて以来ずっと福田さんの人生に大きな影響を与えます。今でもバスケットボールを続けています。

小学生の頃は勉強より友達と遊ぶことに集中していました。そんな姿を見て、お母様が「公文」を強制的に申し込みます。

本人に全く意欲はなく、本当に公文は嫌いでした。学習教材のカードを絨毯の下に隠したり捨てたりと、あの手この手で公文から逃げていました。

もちろん、これは親にばれる訳で、そのたびに怒られます。

 

バスケットと福田さん

バスケットと福田さん

 

中学校は公立校に進学します。

中学校では、主にバスケットボール、武道、勉強に打ち込みます。

バスケットボール部は特段強くも弱くもないチームでした。選手権を5回勝ち上がってもまだベスト64というほど、大阪は学校数が多かったそうです。

また、バスケットボールと平行して、小学生の頃から10年間、武道(居合道)を習います。

始めたきっかけは、姿勢が悪い福田さんの姿勢矯正のため、お母様が半ば強制的に道場へ入れました。

武道の稽古はとても厳しい稽古でした。居合道(無双直伝英信流)の他にも、剣道や杖術も稽古します。道場では、よく山籠もりや近畿各地へ修行に行きました。

柳生の里、吉野の六角堂、比叡山の宿舎などに籠り、ひたすら稽古に打ち込みます。稽古は厳しかったですが、一年に一度楽しみがありました。

それは、京都岡崎の武徳殿で行われる奉納試合です。実は、奉納試合が好きだった訳ではなく、京都へ行けることが楽しかったそうです。

現在の京阪電車は七条~出町柳間は地下を走っていますが、福田さんが小・中学生だった当時は、京阪電車が地上を走っており、車窓から鴨川沿いの川床などの京都らしい風景を楽しむことができました。

これが大好きだったんですね。

勉強は周囲の友人の学力が高かったため、福田さんも周囲に取り残されないように勉強に励みます。

 

ここまでの人生が物語るように、誰かに強制されることが本当に大嫌いな子供でした。

 

武道に励む福田さん

武道に励む福田さん

 

高専~就活

高校からは、普通高校ではなく5年制の大阪府立工業高等専門学校、通称「高専」の、機械工学科に進学します。

機械工学科は、機械設計・製図や材料力学・流体力学・機械加工等について学ぶ学科です。

1,2年時に高校一般教科過程を終了し、3年時からは専門課程を学びます。5年時には、卒業論文に取り組みました。

高専はモノづくりの設備が桁違いに揃っており、鋳造・鍛造や旋盤での加工実習等、様々な経験を積むことができました。

このような実地実習や面白い経験ができる一方、勉強は難しいものでした。それに何とか食らいついていきました。

 

 

 

高専の外観

高専の外観

 

高専入学時、学長より「高専は知識を学ぶところではなく、知恵をつける場所です」と明言されます。この話は、今も福田さんの心に残っています。

高専は15歳~20歳の学生が所属している特殊な環境のため、社会の規律や上下関係、人と繋がりの大切さを学ぶことができたと言います。

また、勉強内容が難しいこともあり、留年する学生も多くいました。そのため、自分のクラスに年上の方が毎学年在籍していました。

高専でもバスケットボールを続け、殆どの日々をバスケットボールに捧げます。

必死に取り組み、全国高専大会にも出場します。バスケットボール部ではバスケットボール以外にも、上下関係や規律、仲間との繋がりを学ぶことができました。

アルバイトも沢山やりました。ファストフード店、お好み焼き屋、ちゃんこ屋、新聞配達、引越業者など幅広い職業を体験します。

 

高専生活も5年時になり卒業研究・論文を書くことになります。卒業研究のテーマ選定の時期にバスケットボールの遠征があり、選定申請に出遅れます。

そのため、皆が率先して選定しなかったテーマを選定することになりました。この卒業研究が福田さんの後々の人生に大きな影響を与えます。

 

そのテーマは 「オブジェクト指向の考え方」でした。

※オブジェクト指向とは、コンピュータプログラムの設計や実装についての考え方の一つで、互いに密接に関連するデータと手続き(処理手順)を「オブジェクト」(object)と呼ばれる一つのまとまりとして定義し、様々なオブジェクトを組み合わせてプログラム全体を構築していく手法です。(https://e-words.jp/w/%E3%82%AA%E3%83%96%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%88%E6%8C%87%E5%90%91.html#:~:text=%E3%82%AA%E3%83%96%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF% E3%83%88%E6%8C%87%E5%90%91%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%80%81%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF,%E6%A7%8B%E7%AF%89%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%8F%E6%89%8B%E6%B3%95%E3%80%82より引用)

 

今となっては当たり前の開発手法ですが、当時はWindows3.1が登場し、DOSからWindows3.1に切り替わるタイミングでオブジェクト指向の考え方は普及していませんでした。

非常に概念的な理論で分かり難く、理解できない・面白くない、しかも当時の教授は頭が良く、とても変わった方で大変なことばかりでした。

「今、論文を見ると、それほど大した内容ではありませんが、オブジェクト指向の本質はしっかりと記述できているな。」と話します。

Windows3.1とオブジェクト指向を卒業研究で勉強できたことが、今後の福田さんの仕事の基礎となっていきます。

高専卒業が近づき、就職先を考えるようになりました。元々はバスケットボールの強い企業に行きたいと考えていましたが、就活を開始した直後にお父様が癌で倒れます。

このため、「父親の近くにいよう、直ぐに実家に戻れる場所を就職先に選ぼう」と考え、就職先を京都と神戸の2つから選ぶことにしました。

最初は漠然とお洒落な神戸にしようと思っていました。そんなある日、高専に半導体ウエハーのイオンドーピング装置を製造する会社の設計部長の方が講演に来られました。

※ウエハーとは、半導体に欠かせない材料で、イオンドーピングとはウエハーに不純物をイオン注入によって加えることで、半導体を有用なものにすることです。

この方の話を聞いて「おもしろい、こんなものがあるのか」と思い、福田さんは会社を訪れることを決めました。

この会社が京都の某重電メーカです。その1事業としてイオンドーピング装置の製造事業がありました。

 

京都駅から西院を通って四条通の梅津にある本社を実際に見学に行きます。そこで福田さんは感動します。なんと、本社に体育館があり、会社にバスケットボール部があったのです。

もう迷う理由はないと思い、即決。また、電機系の重電メーカであれば、機械工学専攻の学生を希少価値として扱ってもらえるのでは?という考えもありました。

余談ですが、この2,3年後に阪神淡路大震災が起こり、神戸の街は大被害を受けます。「もし神戸への就職を決めていたら、別の人生を歩んでいただろうな。」と話します。

 

就職

入社して最初の仕事がC言語を取り扱うものでした。ここで、高専時代に嫌々学んだオブジェクト指向の考え方が役に立ちます。

また、その当時、開発風潮としてシステム開発技術がオープン化(ダウンサイジング)され、サーバー・ホスト系からオープン系への移行期でオブジェクト指向がスタンダードとなっていきます。

人の繋がりで就職した会社で、学んできたことがすぐに繋がる、妙に不思議な感覚でした。

 

福田さんは、機械製図が嫌いでした。絵を描くのは好きだったのですが幾何学的な図面を引くことは好きではありませんでした。

会社には、生産技術部があり、その中に管理技術グループと設備グループが存在しました。

IE・VE・QCなどの管理技術を行う管理技術グループと工場の設備設計を行う設備グループがあり、福田さんは管理技術グループに配属されます。

 

ここで出会う、IEやVEが現在の福田さんの仕事の基礎になります。

 

※IE(生産工学)とは、予算から原価管理、生産技術の開発や効率化など、経営上のさまざまな問題を工学的な手法にもとづいて合理的に推し進めていく学問です。さらに、生産の時間的管理や効率の徹底、一貫生産の管理をスムーズにするための計画なども含まれます。

 

※VE(価値をつける工学)とは、製品やサービスの「価値」を、それが果たすべき「機能」とそのためにかける「コスト」との関係で把握し、 システム化された手順によって「価値」の向上をはかる学問です。モノづくりの企業は競合他社と比較して、どのようにコストを管理したらよいかを考えて製品を作ります。

 

IE・VEと言う学問を現場の方へ教育・研修する業務が福田さんの仕事でした。「IEを勉強するとモノの生産の流れがすべてわかるようになる。」と福田さんは言います。

IEでは、どの工程にどんな設備や人員をどれくらい配置し、工数とコストを計算し工程設計を行います。IE・VEを浸透させることで工場の生産性は飛躍的に向上します。

また、社歴が進みスキルが向上すると、IE・VEを教育すると同時に現場の方々とプロジェクトを発足し、現場にて実際の工程設計や改善を行う社内コンサルのような仕事に進化していきます。

更に、モノづくりを行う際に、生産性を向上させ早く正確に製品を生産するためには、部門間や生産ライン間で情報を共有・連携する必要があります。

これらの情報一元管理や情報連携の仕組みをITで準備しようと考案されたのがERP(enterprise resource planning)やPLM(Product Lifecycle Management)と言われる手法です。

ここで、福田さんはBOM(Bill Of Materials)に出会います。 日本の製造業では、主に「部品表」と呼ばれるものです。

 

※BOMとは、製品を構成する部品の一覧であり、階層構造を示すとともに、製品がどの部品で組み上がっているかを管理します。

 

 

BOMの説明

BOMの説明

 

当時、BOMは一般的ではありませんでした。しかし、BOMやBOMを管理・活用したPLMこそが、モノづくりや生産管理に重要だと気付くことになります。

このBOMとの出会いが福田さんの人生に大きな影響を与え、人生の転機を迎えることになります。

 

その後、縁があって、大手商社のグループ企業である、某工作機械商社に1回目の転職を行います。

この会社では、高専時代の経験が活きることになります。旋盤や鋳鍛造といった高専時代に経験した知識が会社で取扱う商品の理解にとても役立ちました。

また、同社では、CAD(機械設計ソフト)やCAM(自動切削プログラム)、生産ライン設計の製品を取扱っており、新たな製品分野を広げるため、部品表を管理するPLM製品の取扱いを検討していました。

この会社では、お金とモノのつながりや一般的な流通、企画・広告・代理店の機能などの知識を吸収することになります。

 

上記会社に5年ほど勤めた後、当時システムの業務運用構築に特化した事業展開を行っていた某運用コンサルティング会社に転職(2回目)します。

そこでは、業務運用構築の他に、PLMを活用したモノづくりのコンサルティングや部品表・品目マスタのデータクレンジングというビジネスを行いました。

※データクレンジングとは、データの誤記や未入力・重複などの不備を修正し、データの正確性を高める作業のことです。 データの誤りや不揃いなどを修正することで、データ全体の正確性を向上させることを目的としています。名前が各企業によって少しずつ異なる部品表の整理・統一を行うという地道な仕事でエクセルやアクセスといったソフトで分析を行い、ルールを設計しそのルールにしたがって、名称を統一・整理する作業です。

この会社で出会った当時の女性社長さんが福田さんの恩師の一人になります。

この会社は、その後社名変更を行い、合わせて10年ほど勤め、システムコンサルティング/プロジェクトマネジメント/新規事業の立ち上げ・運営/PLMを中心とした技術情報管理の構築/生産管理・需要予測を

切り口に、お客様の業務改革~システム構築などの業務に従事しました。

 

会社設立・アロムコンサルティングとは?

 

その後、色々なタイミングが重なり、2013年に転機が訪れます。

お父様に似て、サラリーマンという働き方が自分に合っていないことや、何かを1から創造したいという価値観から会社設立を決意し、2013年7月5日にアロムコンサルティング株式会社を設立することになります。

「会社設立には、恩師である女性社長さんをはじめ、様々な方々に協力いただきました。本当に皆様には感謝しかありません。」と福田さんは話しています。

会社を設立したのは良いが、何で食べていこう?と改めて考えます。

原点に立ち返り、IE・VE・部品表・PLM等を駆使して、モノづくりを行う製造業の改革や付加価値・生産性の向上を支援するビジネスを会社の軸におきます。

顧客から見たときに、大手が得意なところ、小回りの利くベンチャー会社が得意とするところが必ずあると捉えています。

大手企業のように、分野や役割に応じて部隊を分け顧客にアプローチするのではなく、色々な分野を横断して必要な人材を少数精鋭で配置し、小回りの利くビジネスモデルで対応することを骨子にビジネスを展開します。

 

アロムコンサルティングで仕事としてかかわるプロジェクトの期間は、長くて3~5年、短くて3ヶ月、平均して1年位の期間になります。

業績に関しては、一年目の立上期は大変でしたが、それ以降現在に至るまで黒字経営を行っています。

現在、社員は、福田さん含め3人、業務委託の方3人で事業を行っています。大きなプロジェクトの際は、パートナー企業の方を含め10-15人が稼働します。

福田さんは会社規模について、「少数だから小回りが利いて、できる仕事がある。規模は大きくしない。」といいます。

一度、会社規模を大きくしようとしたこともありましたが、アロムコンサルティングのビジネスモデルにおいては、価値観の違いなどから仕事や人のコントロールが困難だったと話します。

 

アロムコンサルティングでは、元々顧客の立場(メーカ企業側)に居たことで、顧客視点も持合せ、「何に困っているのか?本質的な課題は何か?プロジェクト活動実施に際しどのようなコスト感を持っているのか?」等顧客側の困りごとを理解することができます。

まるで社員のように、社員の立ち位置でプロジェクトに参画し業務を行い、お客様側の人材教育も同時に行っていくことができる、これがアロムコンサルティングの大きな強みです。

顧客である企業がしっかりと価値を感じてくれるように、Win-Winであり続けることを意識してビジネスを行っています。

結果、継続して成果を出すことができると、リピートや口コミ・紹介にて仕事の依頼をいただくことができます。

蓄積された、プロジェクトやコンサルティングの手法・考え方やセオリー・提案内容を社内にて一般化し、各顧客にあわせてカスタマイズすることで、顧客へ迅速に提案・活動を行うことが可能となります。

これはオブジェクト指向のベースである、モジュール化と同じ考え方です。卒業研究にて偶然出会った 「オブジェクト指向の考え方」 が現在のアロムコンサルティングの事業骨子として活きています。

 

アロムコンサルティング株式会社ロゴ

アロムコンサルティング株式会社ロゴ

 

 

Whatever Shimogamoとの出会い

Whatever Shimogamoとの出会いは偶然でした。福田さんは、京都の自宅から大原や貴船、鞍馬などを自転車でよく走ります。ある日の自転車の帰り道のことでした。下鴨本通りをいつものように南下していると、

今までなかった真新しい建物が目に飛び込んできました。

「なんやこの建物は。カフェかな?違うな。」

帰宅後ネットで検索し、まだオープン前だったWhatever Shimogamoのことを知ることになりました。COCON烏丸からオフィスを移転したいと考えていた福田さんは、休みが明けてすぐにWhatever Shimogamoに連絡しました。

内覧に来てみると、すぐに福田さんはWhatever Shimogamoを気に入ります。

その当時、ワットエバー株式会社が立ち上げてすぐということもあり、Whatever Shimogamoをすぐに畳んだりしないか?と言う不安もありましたが、Whateverの楪葉代表が自信満々に 「大丈夫です!」

と説明、福田さんの不安は即座に解消、その日の内に2つ返事でWhatever Shimogamoの入居を決定し、翌日には荷物を運び入れました。

 

Whatever Shimogamoは、立地が最高で近くに自然が多く、時間を気にせず仕事ができ、シャワーやトレーニング器具も完備。

また、様々な分野・職種の方々(弁護士・社労士・建築家・IT企業等)が入居しているため、何か困ったときはすぐに相談できる環境が身近にある。「だから最強だよね!」と福田さんは言います。

 

Whatever Shimogamo内の福田さんのオフィス


Whatever Shimogamo内の福田さんのオフィス

 

経営の考え方と今後の人生

人生を通して福田さんの価値観を形作る基礎は、「ポジティブシンキング」と「論理思考」です。理にかなった考え方をしている限り、大体大崩れしない。そこさえ外さなければ、大丈夫と感じています。

何事もポジティブに捉え、論理的に考える、これは事業の基礎にもなっていますね。

そして、福田さんが生きる上で大切にしているのは、熱意と感謝です。

この背景には、恩師にいわれた以下の3つの言葉があります。

 

  • 自分のために仕事すること。
  • 組織における自分の役割を理解すること。
  • 相手の立場に立って物事を考えること。

 

この3つが実行できれば最強だと考えています。一番難しいのは相手の立場に立って物事を考えることだといいます。

「この3つ目が、出来るようで簡単には出来ないんだよね」

時間と歳月掛けて実行し、最近ようやく少しできるようになったのだと。今でもこの3つの言葉は忘れずに心に刻んでいます。

何事にも感謝して徳を積み相手に誠実であること、これが何よりも大切なことだと考えています。

 

また、経営において大切なことは、「自分の周りには常に凄い方々がいて、自分は一人ではない」と思うこと。

自分が窮地に陥っても、できる限りのことをやり尽くして、それでもダメなら、素直に周りに助けを求めること。だと強く感じています。

 

アロムコンサルティングを起業した初年度は順調でしたが、すぐに窮地に陥りました。それは、福田さんが自分の仕事への価値観や描くシナリオがすべて通用すると高を括っていたからでした。

数か月新規受注がなく、銀行もお金を貸してくれない、資本金も底をついていく、従業員に給料を払えなくなる可能性、こうした恐怖に心がすり減り、心が壊れそうになっていました。

どうにも立ち行かなくなり、株主の方々に支援の相談をしました。

その時、株主であった東京の社長さんから

「本当にやれることを全てやったのか?福田さんがこれまで出会って来た方々に頭を下げて仕事を下さい。とお願いしに回ったのか?」

「まだまだやれるとこがあるのに、この期に及んで恰好をつけていないか?」

「そんな覚悟がない状態で経営の世界に入ってくるな」

と愛のある説教を受けることになります。

その日を境に、仕事への向き合い方が大きく変わりました。

それからは、プライドや恰好を気にせず、会社や協力してくれる社員・家族のために、結果を出すためなら何でもやろう!と心に誓います。

 

福田さんは「無から有を作り出す」ことを目指しアロムコンサルティングを立ち上げました。自分たちのノウハウだけではなくいろいろなものを集結させて、何にもない状態からモノを創造すること、これに価値がある。

これは女性が子供を産むことに通じるものがあると考え、マヤ神話に登場する「アロム」と言う母神の名を会社名に入れて、アロムコンサルティングとしています。

次の世代の方々が就職する時に、大好きなモノづくりが日本から姿を消さないように、微力ながら日本のモノづくりに少しでも貢献できるよう、仲間と日々仕事を楽しくしていきたい。と福田さんは言います。

 

仕事以外の今後の人生でやりたいことは、これまでの自分の人生に大きく影響を与えてきた“バスケットボール”に少しでも恩返しができればと。

「何ができるかはわかりませんが、これまで仕事で培ってきたノウハウ・人脈も活かし、京都や育ってきた大阪のバスケットボールに少しでも貢献できることを見つけて関わっていければ最高ですね。」と話します。

 

最後に

以上、福田秀樹さんの紹介でした。

無から有を作り出すために働き、今までの人のつながりに感謝して歩んできた素敵な方です。

福田さんとお話ししたい、一緒に筋トレしたいという方はWhatever Shimogamoまでお越しください。

 

アロムコンサルティング株式会社コーポレートサイト

https://www.alom.co.jp/

その他の入居者の記事はこちら

https://whatever-produce.com/member

次回の紹介もお楽しみに。

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