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【Whatever SHIMOGAMO入居者紹介】 ちとせ社労士事務所 黒田 香奈(くろだ かな)
2024.3.21
Whatever Shimogamo入居者紹介
Whatever Shimogamoの入居者様を紹介しております。
本記事では、ちとせ社労士事務所 社会保険労務士の黒田 香奈(くろだ かな)さんを紹介します。
幼稚園時代
黒田さんは福井県に生まれました。小さい頃はどんな子供だったのか尋ねると、
「すごいお調子者だったなあ。人がたくさんいるところが好きだったと思う。」と言います。
人がたくさんいると、テンションが上がって楽しくなる、そんな子供でした。
幼稚園にはなぜか他の人より一年遅く入園しました。そのため、転校生と思われ、最初は馴染むのが大変でした。
幼稚園は仏教系の幼稚園だったため、厳しい指導をされていました。例えば、全校集会の時に生徒が少しでもおしゃべりをしていると、連帯責任で全員のそのあとのおやつが抜かれてしまうこともありました。もちろん、当時は黒田さんにとってこれがスタンダードだったため、厳しい指導をされているなんて気づきません。
小学校時代
小学校も今考えると、子供ながら受け入れていたのが恐ろしいほど厳しい指導を受けていたと話します。黒田さんが1〜4年のときの担任の先生は厳格な方でした。ふとしたおしゃべりで怒鳴られたり、お手洗いに行くのが許可制だったり…しかしこれは黒田さんにとっては日常でした。
黒田さんは、国語や本読み、物書き、ピアノや音楽が好きな子供でした。元々本を読むのが好きだったのですが、自分でも書きたいという衝動からよく覚えていないがストーリーを作って書いていたそうです。原稿用紙に鉛筆を走らせ、紙が黒くなってゆくのが、黒田さんは大好きでした。音楽も幼稚園の頃から変わらず好きで、仲のいい友達とよく帰り道に歌を歌いながら帰っていたのを今でも覚えているそうです。
やりたいことはすぐに始める
ピアノやそろばんといった習い事は、自分から「やりたい。」と親に告げ率先してやっていました。やりたいと思ったことはためらうことなくすぐに始めていたのです。とりあえずやってみる、続かないかもしれないけどやってみるということを大事にしていました。両親も黒田さんのそんな性格を分かっているため、意思を尊重しやりたいことを止めることはしませんでした。
成績は普通に良くも悪くもなかったですが、苦手な体育を除き真面目に取り組んでいました。福井県は教育が厳しい県として有名で、小学校、福井市、福井県からそれぞれ生徒に宿題が出るのです。これも量が多いことにはうんざりしていましたが、難なくついていくことができました。
幼いながらに感じた不自由
小学校に入学後、好きな本を本屋に買いに行ったことがありました。しかし、本屋には黒田さんが欲しいと思った本はありません。他にも、音楽教室いろいろ通ってみたいなあと思い探してみても、福井にはピアノ教室しかありません。
「不自由だなあ。」
黒田さんは生活の中で、小学生ながら福井には情報が少ないなあと感じるようになりました。黒田さんにとって福井は狭い世界だったのです。
中学校時代
中学校では、授業や勉強に対して今まで以上に真面目に取り組むようになりました。ある時、黒田さんは気づきました。
「授業って真剣に聞いた方が時間がたつの早いんだ。」
それ以降黒田さんは授業に集中して取り組み、成績もゆっくりと上昇していきました。最終的に、先生から進学校への進学を考えてみないかと言われるレベルまで成績が上がりました。
中学校では、英語の授業が始まります。黒田さんは幼少のころから英語の曲などで英語に触れていたこともあり、英語は得意でした。偶然にも、黒田さんのお父様の担任だった人が、黒田さんの英語の授業の担当で、とても黒田さんのことを可愛がってくれました。英語自体が楽しいというより、わかる、解ける、できるのが楽しかったのでした。
受験と選択
受験期になって、進路選択をしなければならないときが来ました。黒田さんの選択肢はほぼありませんでした。というのも、進学校に行こうかなと考えていたのですが、福井県では学校群が決まっており、県内にある二つの進学校のうちどちらの進学校に通うことになるかは自分では決められないからです。黒田さんにとっては、この希望通りに学校にいけないというのがとても嫌でした。
そのため、ほかに選択肢に入る学校はないだろうかと探しました。そして見つけたのが、進学校2校に継ぐと言われていた商業高校の国際経済科でした。この学校・学科は英語を集中して勉強する学科でなおかつ商業高校では珍しく、大学に進学することを前提としていました。
「おもしろそうだし、ここに行こうかな。」
やるとめたらはやい黒田さんは、推薦ではなく実力で入試に合格して入学したいと思い、受験勉強を開始しました。黒田さんは本当に化学や数学が嫌いでした。でもやらないといけないものではある。そんな葛藤を持ちつつも、受験直前期になって嫌いな理系科目を勉強していると意外とできる、意外と面白いと思うようになりました。
価値観の受容と合格
また、受験期には塾にも通っていました。塾では初めて出会う考え方の持ち主ばかりでした。私立の学校の人などと一緒に勉強すると、普段の学校内のコミュニティにいる人の考え方とは全く違う考え方に触れることができます。そういった人と話すのが面白かったのです。黒田さんは進学校に行けばこんな人たちと一緒にいられるのかと心揺られることもありました。
「総じて受験勉強は大変だったけど楽しかった。」
勉強に集中することや、新たなコミュニティでの新たな考え方との出会い、そのすべてが新鮮でした受験勉強に対して、ポジティブに取り組めたのですね。そして無事、志望校の国際経済科に合格しました。
高校時代
高校は国際経済科の名に恥じず、手を変え品を変え英語の授業が並ぶ時間割でした。ほとんどの授業が英語の授業で、その合間に経済学や社会の授業が入っているような時間割でした。また、国際経済科のクラスだけ他の学科のクラスと異なる棟にあり、なおかつ進路指導室の隣にありました。そのため他の科の生徒が寄り付かないという不思議な環境でした。
校舎が分かれていたこともあり、高校での黒田さんの世界は狭い世界でした。学校全体だと何百人もいる学校でしたが、黒田さんにとっては教室の40人がすべてでした。クラス全員で、日本語使用禁止で休み時間を過ごすなど、全員が英語に対して高い意識を持っていました。留学に行く人や留学から帰った人、ひいては帰国子女もクラスに存在しました。今までは、こういった新たな人との出会いなど変化がなかった中で刺激的な変化が生まれ、黒田さんはわくわくが止まらない毎日でした。
海外との出会い
黒田さんの高校は、オーストラリアの学校と提携し交換留学の派遣や受け入れを行っていました。
「その制度を使って、日本に留学に来た学生をホームステイさせてもいい人はいないか。」と、担任の先生から連絡があった際には、「やりたい。」と迷わずすっと手を上げました。
もちろん、両親には事後報告でした。そして実際にオーストラリアの女子留学生との二週間のホームステイ生活を行ったのでした。
さらに、高校の制度として、修学旅行とは別に、短期留学をする権利が生徒にありました。黒田さんはもちろんこの制度を活用しました。はじめて海外に降り立つと、世界が広がりました。例えば、ホームステイ先の人にサバゲ―会場のような場所に案内され、実弾銃で撃つゲームがあるカルチャーに触れました。こういった知らない世界や新鮮なカルチャーショックのすべてが黒田さんを楽しませました。
他にも「ルール」というカルチャーによる違いを感じることも多かったと話します。
「世界は広いなー」
小さなルールに現れる文化性の違いを感じて、おもしろいなあと感じてばかりでした。
部活動
部活は放送部に所属していました。高校がスポーツ校だったため、甲子園の地方大会のウグイス嬢をしたこともありました。また、スピーチ大会では英語で出場し見事賞を獲得したこともありました。
価値観の広がり
黒田さんは海外経験などを経て、多様な世界を体験し自分の価値観が拡張されていく感覚がありました。しかし、明確にやりたいことはありませんでした。そのため、ふと美術の大学がおもしろそうだなと感じたその思い付きで、美大を目指したいと思いました。あとさき考えて行動するのではなく、今やりたいと思ったことを迷わずに今やる、それが大事だと思って行動していました。
夢と父
高校時代の黒田さんにとってやりたいことは大きく二つでした。それは英語と美術です。
「英語は高校で今頑張っている。美術は大学で頑張ろう。」そう思い、「今」の活動と「未来」のための活動を同時並行で進めたのです。どちらもやりたいと思った。だからどちらかを諦めることだけは絶対にしたくなかった。絶対後悔すると感じた。だからどちらも頑張ったのです。黒田さんのお父さんは東京の大学を出て、会社に入り、起業をしている方でした。しかし、彼はドッグトレーナーになるという夢を諦めた過去を持っていました。これをずっと引きずっていたことを黒田さんはお父さんから聞かされていました。それもあり、やりたいことを諦めたくなかったのです。そんな娘の葛藤を見て、
「やってみたら。」と背中を押してくれたお父さん。
とりあえずやってみる。これを応援し支えてくれた両親に黒田さんはとても感謝しています。
芸大を目指し一人京都へ
行動に移すのは相変わらずすぐでした。考え出した1年生の春休みから、美術教員に薦められた京都・今出川の大学受験用の画塾までデッサン教室に通っていました。この画塾は先日の記事で紹介した、大津さんが通っていたものと同じでした。
それ以降も夏休みなどの講習の際に京都に来て、デッサンの研鑽を積んでいきました。画塾でも新たな友人ができました。自分の高校以外の美大に行きたい友達や画塾で浪人生活を送る友達、彼らとの出会いは様々な価値観との出会いでした。自分の考え方が開けていく感覚が楽しく、黒田さんをわくわくさせました。余談ですが、京都を訪れた際に一人でホテルに宿泊するのも楽しかったのでした。
受験までは一心不乱にデッサンに打ち込みました。
「はやくやらないと受からない、他の人に追いつきたい。」
この気持ちは途絶えることなく、楽しみながら受験当日まで努力を続けました。そして、成安造形大学のイラストコースを受験し、デッサンの試験も面接も見事合格。倍率の高い年でしたが見事やりきったのでした。
大学一回生―イラストコース
成安造形大学のイラストコースでは、一年生はみんな同じ授業を受けます。一年目は様々な基礎を体験し、その後自分がやりたいことへと専門性を高めていくカリキュラムでした。そのため自分の学科の授業だけではなく、さまざまな学科の専門的なカメラやフィルム現像の授業などを受講し刺激にあふれる日々でした。
WEBデザインとの出会い
黒田さんは二年生に進級して、webデザインやグラフィックデザインに出会います。
「なんて奥深くて面白い世界なんだろう」
こう感じました。
また、黒田さんは勉強する中でアートとデザインの違いを感じます。
黒田さんは両方に触れて自分はデザインをやりたいと感じました。サントリーの昔の広告やデザイナーの作品の、一言や一枚のデザインで購買意欲を持たせる部分に感動したのです。黒田さんはビジネスに関することで、人間の行動心理などを考えることを更に勉強していきます。そして、三年生に進級する際イラストコースからグラフィックコースに転科したのです。
パッケージデザイン
グラフィックコースでは、より専門的なパッケージデザインや現在存在する商品のリデザインなどを行いました。その一つとして、入浴剤の「バブ」を変形し、個包装されていないものを作ることに取り組みました。
大学時代は4年間通して制作が生活の中心でした。皆ボロボロになるまで徹夜し、合評に向けて制作物をチームで作り上げる。そのため、大学時代の友人は「戦友」のようだと話します。
「紙」が好き
どの授業を受けても「パッケージデザインおもしろい。」と感じます。
また当時、紙ではなくwebだといった風潮が芽生えていました。しかし黒田さんは紙を触るのが好きでした。なので紙でのデザインを行いたいと思っていましたが、印刷業界は斜陽産業であり、ただ紙を触るだけではおもしろくないとも感じていました。そして、
「やはり、パッケージデザインおもしろいからパッケージデザインの会社に行こう。」
と決意したのです。実在するものを作るというのが温かみがあるように感じており、黒田さんに合っていたのです。
当時は「就職氷河期」と言われており、黒田さんもその影響を大きく受けました。
しかし、そもそもパッケージデザインを行う会社はあまりなく、余計に悩むことなく黒田さんは会社を選び内定をいただくことができました。その後の卒業研究では、「古今和歌集」のリデザインを行いました。春夏秋冬それぞれの巻を一冊ずつ蛇腹折りにしました。そして、桐箱に収め真田紐で結ぶ、という作品です。おもしろいですよね。
自由を求めて
大学生活。福井から出ていろいろな県の人が集まる場に来て、「こうじゃないとだめ」がつらいこと、「こうしないと」なんてものは実は必要なく「何でもいい」ということに気づきました。これは福井にないから駄目、子供だから駄目。そんなのどうだっていいんだ。別に何したっていいじゃないか。自由に生きよう。自分の可能性を狭めないように生きていこう。そう考えるようになりました。
今も残るデザイン
就職先は食品専門のパッケージデザインの会社です。ここでは、贈り物のお菓子やお土産のパッケージデザインがメインでした。贈り物は、人にものを贈る文化の上に発達したもので、黒田さんはこれが温かくて好きだと言います。また、今でも黒田さんが担当したデザインが残っています。これがうれしいと黒田さんは述べます。自分がつくったデザインが長い間残って、何回もロットが回って、商品とともに人気になる。デザイナー冥利に尽きる話だと言います。さらにたくさんつくったデザインの中でも、一番気に入ったものが残っていると話します。
それは祇園にある飴屋さんのデザインです。黒田さんはいろんな飴の色が見えるデザインを行いました。パッケージに飴壺の形に中の飴が透けて見える窓をつくり、飴の色がデザインの一部として現れるようにしました。
他にも、お菓子のブランドの立ち上げからすべてを行ったこともありました。お菓子のタイトルも考えて商標登録を行ったり、撮影に行ったりと総合プロデュースやディレクターのようなことも行いました。
黒田さんのこだわり
お菓子は童話や民話と絡むことが多いので、黒田さんは民話や土地の歴史を調べてアウトプットに盛り込むことを心がけていました。歴史や文化を細かく調べ、そこに住む人や訪れる人の特性を調べ上げる。お土産や贈り物としてより効果的なデザインを行うためこういったことを怠りませんでした。和風のデザインを得意としており、「京都担当」と言われていました。黒田さん自身も、和風のデザインの案件をアサインされると嬉しく思っていました。
転職、社労士へ
徐々に会社の方針と黒田さんのやりたいことが合わなくなって、黒田さんは転職を決意します。11年間勤めあげ、退職しました。
「転職先に選ぶのはデザイン会社が楽だけど、やってみたかったけどやれなかったことをやろう。」
こう思い、黒田さんは様々な職業を見てみることにしました。その中ですっと頭に入ってきたのが、社労士の勉強でした。「これおもしろい」と感じ、勉強にのめり込みました。
「試験がすぐあるし受けてみようかな。」
取りあえずやってみるという精神でそう思い、退職後2か月後に勉強を始め、その年の社労士試験を受験・見事合格を果たしました。
人のつながり
2016年の試験に合格し、2017年無事社労士として登録を行いました。その間も社労士事務所に勤務するなど、インプットとアウトプットを重ねながら実務経験を積みました。難しい業務に苦しみつつ、でも、とても刺激的で楽しい時間でした。
そしてついに、自宅に個人事務所「ちとせ社労士事務所」を開設しました。「ちとせ」と名付けた理由は、「ご縁が長く続きますように」という意味を持つ、和風で縁起のいい言葉だからです。開業後初めて自分で営業を行うと、その大変さを身にしみて感じることになりました。士業は法律に基づいて業務を行うため、だれに頼んでも仕事自体は同じです。そのため、社労士本人が持つ性格などのタレント性が非常に重要になってきます。相手と話したり、お酒の席に顔を出したりと、関係構築が大事なのです。相手と顔を合わせ話をするうちに、この仕事をお願いしたいという依頼が生まれてくるのです。これは大変なことでした。しかし同時に、人と関わることの大切さや誰と一緒に働くかを考えることの大切さを感じることができたと言います。
黒田さんのお仕事
社労士としては、会社の労務の相談を受けています。労務のサポートでは、会社と契約についてや、従業員が安心して働くことができる環境構築などのアドバイスを行います。また、育休や社会保険の制度を説明したり、給与計算の相談に乗ったりと一言で労務相談と言っても内容は多岐にわたるそうです。なかでも給与計算は、顧客側で正しく計算できる人がいることは非常にまれで、細心の注意を払ってトラブルの未然防止を心がけています。
一番大変、でも一番楽しい
社労士として働く中で一番大変なことは、お客さんに合った提案をすることです。きちんとリスクなどを説明したうえで、お客さんの意思をきちんと尊重することに気を付けています。そして、これが同時に一番楽しいことでもあるといいます。リスク軽減の提案やお客さんが思ってもいなかった提案で、お客さんに喜んでもらうことができると嬉しいと述べます。そして、相手に寄り添った提案を行うのはデザイナーの時の仕事の経験が生きていると言います。こうして出した提案がお客さんに受け入れられるとこの上なくうれしいのです。
Whatever Shimogamoと黒田さん
Whatever Shimogamoとの出会いはフェイスブックの広告でした。もともとWhatever Shimogamoがあったビルは家具屋でした。黒田さんはフェイスブックの広告で弊施設が表示された際に、「あれここ家具屋じゃなかった?」と思い気になりました。
そしてちょうどに何処かにオフィスを借りたいと思っていた黒田さんは内見に行くことを決めました。内見の際、家具屋のときからある玄関扉や階段の手すりをそのまま活用しているのを見て、「この楪葉さんおもしろい人だな、・・・なんか気持ちがザワザワするしここにしよう。」と入居を決められました。その後、他の人にとられちゃうと思ってすぐにオフィスの移転を行いました。
Whatever Shimogamoでの生活はウェットすぎないつかず離れずの関係地が心地よくて好きだと言います。仕事自体は関係ないのに気づいたら仲良く話すようになっている。よく見かけるけど詳しくは何をしている人なのか知らない人もいる、でもどこか親近感がある。こういった人たちであふれている。さらにはWhatever Shimogamoで一緒に温泉に行く友達もできたと言います。
これから仕事でしていきたいこと
黒田さんは自分社労士としてまだまだだと語ります。法改正もおおく、目まぐるしい業界であり、自分がいち早く情報をキャッチしてお客さんに話す必要があります。こうした士業の業界は、Whatever Shimogamoや芸大に似ていると黒田さんは考えます。知りたいことや知らないといけないことが多く、常に刺激的だけどちょうどいい塩梅。飽きないし面白い。自分はまだまだ学んでもっといい提案ができる。そう考えています。
社労士として仕事するうえでは、前向きな提案をすることを意識しています。決して妥協ではなく、心の傷を癒し、お客さんを「良い方向」に持っていく。その人がちょっと前向きになるような提案ができるといいなあと常に思っています。
「社労士は経営者の味方でも、従業員の味方でもなく会社の味方。」
これは黒田さんの先生の言葉です。黒田さんは従業員として働いたことも、独立して働いたこともあり、両方の立場を経験しています。提案を行う先の会社が、より良い会社になるように、両方の視点でバランスよく状況を見ることを心がけ、必要があれば寄り添いつつも少しだけ考え方や方針が広がるような前向きな提案を行う。これを意識して仕事に臨んでいるのです。
ただお客さんの指示通りに仕事を行うのではなく、お客さんの本当の望みを照らす提案を行う。その為にお客さんから本当の望みや悩みを引き出すプラスアルファの提案を行っているのです。
生きる上での価値観
生きる上で大事にしている価値観は、「当たり前を一回疑う」ことです。自分自身が変な思い込みをしてないか一回立ち止まって考えてみる。自分自身の基準を見なおし続けることはもちろん、他人に対してもその人が持つ固定的な価値観や考え方を見て、それを崩すことができないか考えてみることを意識しています。
これによって提案の際に、凝り固まった提案を行うことなくプラスアルファの価値を乗せる提案ができるんだと感じています。
今後の人生でやりたいこと
黒田さんは、数年前京都市のSILKがやっているイノベーションキュレーター塾に参加しました。その塾では、貨幣価値や物の価値って何なのだろうという実験を行いました。具体的には、コーヒーをチケット制で販売し、前の人がチケットでコーヒーを飲んでからお金を払うかどうか決めるというものです。値段を言われて購入するのではなく、自分でコーヒーの持つ価値に対してお金を出すか出さないかを決める。この際に他の人がお金を出したか出してないかは主催側にしかわからないようにしました。すると面白いことに皆お金を払ったのだと言います。この体験が黒田さんの中に残っています。不思議な体験でした。皆安いものが好きなのになぜお金を払ってくれたのだろうか、と。そのため、お金の価値を問うことをやめたくない、もっと追求したいと考えています。
最後に
以上、黒田さんの紹介でした。
黒田さんにお会いしたいという方はぜひWhatever Shimogamoまでお越しください。
それでは次回もお楽しみに。
ちとせ社労士事務所HP
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