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【EVER 入居者紹介】 SOFT DARTS PROFESSIONAL TOUR JAPAN 赤堀 名美香(あかほり なみか)

2023.11.24

Shared Office & House EVER 入居者紹介②

本日は、EVER入居者の紹介になります!

前回の松崎君に引き続き、今回紹介するのはSOFT DARTS PROFESSIONAL TOUR JAPAN 赤堀 名美香(あかほり なみか)さんです。

 

笑顔の赤堀さん

 

幼少時代

赤堀さんは岐阜県岐阜市出身です。
幼少のころは、明朗快活で、おしゃべりが大好きな、動き回って止まらない子どもでした。そのため、行動力があり幼稚園のころから様々なことにチャレンジしていました。

両親が共働きだったため、3歳から幼稚園に通っていました。赤堀さんは昔から負けず嫌いで目立ちたがり屋な部分がありました。例えば、幼稚園で太鼓をたたく演奏会があったのですが、選出された4人がティンプトンという特別な太鼓をたたくことができました。赤堀さんはどうしてもこれに選ばれたいと思い、担任の先生に猛アピールを行いました。結果、アピールの成果は実り、無事ティンプトンをたたくことができたのでした。

 

やんちゃな小学校時代

小学校低学年ではひたすらやんちゃでした。喧嘩をするというよりは、誰にでもいたずらを仕掛けていました。お兄ちゃんがいることもあって、男の子の友達にも臆せずいたずらをしていました。

クラスの班長なども積極的にやっていました。発言力があったため、リーダーシップをとっていました。3年生から学級委員という役職ができたので、こちらも臆することなく挑戦しました。

しかし、小学4年生で人間不信に陥ります。担任の先生と相性が合わなかったからです。結果、あまり目立たない忘れ物チェック係になりました。その時期は自分でもなぜかわからないが、少しばかり大人しい子にあこがれていたのだそうです。小学5、6年生になると再び相性のいい先生にめぐり合い、意欲を取り戻し学級委員を務めます。

 

書道やファッションへの興味

赤堀さんは、幼稚園のころから書道が得意でした。小学校では毎年クラスで1人、上手な子が表彰される時期がありました。これに、1,2年生の時には硬筆で、3,5年生の時には毛筆で選ばれました。6年生の時は書道では選ばれませんでしたが、絵画で賞をとりました。

赤堀さんは小4からファッションに目覚めます。今はもう廃刊となってしまいましたが、ニコプチという雑誌を買ってもらい読んでいました。「リズリサドール」というクール系のブランドがすきでした。

勉強は得意かつ好きでした。持ち前の行動力も相まって、小学5年生から兄が通っていた進学塾に自分で志願して通い始めました。

 

中学校時代

中学校は地元の公立校に進学します。進学塾には引き続き通いながらバスケ部に入ります。
塾には授業がない日も自習をしに行っていました。

勉強が好きだった赤堀さんは中学校で初めて定期テストを受けました。その1学期末テストのテスト返却の際、英語と理科が満点でした。「これは!全部満点なのでは!?」と思って残りの3科目を受け取ると、満点ではなく「あちゃあ…」となってしまったそうです。

1年生前期は学級委員、後期は生徒会で一番下っ端の事務局員を勤めました。事務局員として、挨拶運動などを行い、翌年から生徒会書記になりました。
中学生になると、性格は真面目になりました。やんちゃな部分がなくなっていったのです。というのも、三小一中の中学校だったため赤堀さん以上に本物のワルが大勢存在し丸くなったのでした。

中学2年生では学級委員になり、後期は生徒会副会長に立候補しました。そして、全校生徒900人の前で演説して無事当選しました。生徒会は楽しかった思い出ばかりが残っており、2年の後期からは県の取組である岐阜立志リーダー養成塾という県の育成塾にも参加していました。

バスケ部の活動では、スタメンには入ったものの女社会の、人間関係の難しさに悩まされたそうです。

 

生徒会長選、しかし

中学3年生前期には、ついに生徒会長を務めます。しかし、この生徒会長になるための演説で過呼吸になってしまいます。赤堀さんの演説の終了後、もう一人のライバル立候補者が演説を行いました。そして彼の演説が「ありがとうございました。」という大声で締めくくられたそのとき、「ああ、負けた。」と思い過呼吸になってしまったのです。「立候補しなきゃ良かった。」と思い、吐き気に襲われ始めてビニール袋にえづいてしまいました。また、結果待ちの期間に先生に対して立候補しなければよかった、と訴えるとその先生と不仲になってしまいました。結果的に赤堀さんは当選し、メンタルも落ち着いたのですがこの日以降過呼吸に陥りやすくなってしまいました。

赤堀さんは成績優秀だったため、内申点を、45満点中1年生の時44、2年生の時42、3年生の時44と非常に高くとることができていました。そして、受験が近づき高校を選ぶことになり最初は県トップの進学校を選びます。岐阜県には出願したのちに、倍率をみて出願高校を変更できる期間があるのですが、県トップの高校は倍率が非常に高く出ており、赤堀さんは委縮して学力的に1つレベルが下の高校に出願を変更します。受験当日は、数学の試験で大門3をまるまる白紙で提出しますが、受検直後から合格の自信であふれていたそうです。結果は無事合格でした。

 

家庭環境と障害

さて、ここから波乱の高校生活の始まりです。高校1年生の7月、夏休み前の三者面談の時期でした。ある朝起きると、母親がメモ紙に何かを書いて自分に見せてきました。紙には高校に行くように書かれていたのでよく理解していないまま高校に行き、三者面談を終えました。帰ろうと母の車に乗り込むとそこには母の荷物がすべて載せてあり、衝撃を受けました。父に黙って家を出ることを母は決めていたのです。それ以降、父と母が離婚について揉める期間が続き、赤堀さんは夏休みに入りますが、部活や夏期講習に全くやる気が出なくなってしまいました。

この夏から保健室に行くようになりました。赤堀さんは保健室の先生に、常に人に見られている気がすることを話しました。すると、先生からメンタルクリニックの受診をすすめられます。すすめられた当日に、その場で精神科を予約し受診しました。そこで統合失調症と診断され、それ以降処方される安定剤がお守りのように大事なものになったのでした。同時期に父と母は和解をしたのですが、赤堀さんは常に薬を飲む生活を送ることになったのです。

 

初めての家出

父と母がもめていた期間は、赤堀さんは母方の実家で生活をしていたのですが、和解により以前の赤堀家に戻ることになりました。赤堀さんは、以前から環境が悪いと感じていたその家には本当に戻りたくありませんでした。だから、家出をしました。当時持っていたありったけのお小遣いで、兄のいる東京に単身乗り込みました。もちろん母から電話がかかってきますが、1週間ほど学校をさぼり兄の家で生活をしたのでした。その後は嫌でしたが赤堀家に戻らざるを得ませんでした。

 

任意入院を繰り返す日々

当然、戻っても家庭環境は改善していませんでした。父が部屋に怒鳴り込んでくることも多々あり、赤堀さんは学校に行くことができませんでした。そのため、任意入院と退院を繰り返していました。これからの4年間で8回の任意入院をすることになります。最初は病院に対して、知らない人ばかりで怖いイメージを持っていましたが、いざ入院してみると様々な人がいて意外と居心地の良い場所でした。この病院で今も仲のいい友人と出会い、福祉という領域に興味を持つことになりました。

高校2年生は苦しい家での生活と入院生活を繰り返すつらい1年でした。学校ではいじめられることもありました。影でこそこそ悪さをされたり、主学旅行に行くと「学校にはこないのになんで修学旅行だけ…」と言われることもありました。

 

実家を離れる決意

そして高校3年生で兄に「家を出ろ。」と言われ赤堀さんは家を出る決心をします。赤堀さんはどこに行こうかと考えたとき、京都が頭に浮かびました。もともと京都に来たことがあって、いいなと思っていたのです。そして、病院で興味を持った福祉を学べる京都市内の大学を探し、その大学を目指すことにしたのです。しかし、今まで学校に行っていない赤堀さんは、卒業にも新旧にも単位が足りません。そこで長期休暇の際に、学校に行き、1コマ50分の授業を130コマ分淡々とこなしていました。

 

救いの存在

もちろんしんどかったのですが、この期間はとある2人の存在に救われていました。ひとりは一緒に補習を受けていた車いすの女の子です。出会いは高校2年生の時で、不登校仲間でした。その子がいるから頑張れると安心していた自分がいたのです。一番の親友でした。
もう一人は、中学校の時にお世話になった加藤先生です。この先生は教師を辞めフリースクールを立ち上げていました。赤堀さんは家からフリースクールに行き、学校に行く生活をしていました。話を聞いてもらい、がんばる勇気をもらっていたのです。この先生がいなかったら学校をやめていただろうとも話します。

 

頓挫する大学生活

こうして補習を乗り切り、無事卒業し光華女子大学に合格しました。晴れて実家を出た赤堀さんは念願のひとり暮らしを始めます。意気揚々と大学に通い始めますが、最初の5日間でいけなくなってしまいました。統合失調症を患っていた赤堀さんは、集団や人込みが苦手で、通学のバスで誰かに見られ、笑われていると感じてしまい、これに耐えきれなかったのです。

学校に行かなくなってからは、バイトをせずに服をたくさん買って過ごしていました。仕送りを多くもらっていたので、毎日外食やコンビニでお腹を満たし、大学にもバイトにも行かずにお金を実家にせびって服を買う、そんなニート生活を送っていました。そして後期から休学し、サークルにだけ行って友達と遊んで過ごしていました。

 

そんな中、転機が訪れます。ある日、関西コレクションを友達と見に行きました。そこで赤堀さんは感動します。私もこのランウェイを歩きたい。背が高いことをコンプレックスに思っていたけど、ここでなら私は輝ける。そう思った赤堀さんは、KCEという関西コレクションが運営するモデルスクールに通うことを決心し、関西コレクションのランウェイを歩くことを夢にします。

お金を家に出してもらいながら、学校に通い始めます。KECでは色々な講座を受けて、自分をブランディングすることを学んでいきました。

 

岐阜へ

しかし、2019年秋、大学に行かないなら実家戻れと実家から連絡が入り、岐阜に戻ることになりました。実家には住みたくない赤堀さんは、2020年6月まで実家の近くでおじいちゃんが経営するアパートでひとり暮らしを行いました。

実家に戻ったからと言ってランウェイの夢を諦めることはありませんでした。KECに通うお金を貯めるため、学校をやめフリーターとなりアパレル店員のアルバイトを始めました。ここで接客や努力する楽しさ・社会人マナーを知りました。そして、バイトして貯めたお金で大阪のKECまで通い、夢を叶えるためのレッスンを受け続けました。

 

再び京都へ

2020年になると、世の中はコロナ禍となり大混乱します。赤堀さんも、2020年の6月1日にコロナにかかってしまいます。不幸は重なり、り患した翌日に赤堀さんの祖母が亡くなってしまいます。赤堀さんはコロナに感染していたためお通夜に出ることができませんでした。これを親戚は許しませんでした。因果関係はないのですが、赤堀さんは「おまえのせいで祖母が亡くなったんだ。」と責め立てられます。これで実家に対する怒りや不満が爆発し、赤堀さんは岐阜にアパートを借りたまま単身京都に移動します。

そのころコロナ禍で、ホテルはどこも安くなっており、赤堀さんはホステルのマンスリープランを京都駅の近くに見つけて住み始めました。そして、フリーターしながらひとりで生きていくことを決めたのです。このころ障害は安定しており、踏ん張ることができました。

 

夢の舞台

そして同時期、KECの3回目のオーディションを受けました。書類、1次、2次、3次と通過していった赤堀さんはついに最終試験に合格します。2021年のSSの関西コレクション。これを堂々と歩くことができたのです。夢を叶えたのでした。

 

 

関西コレクション後の赤堀さん

関西コレクション後の赤堀さん

 

次なる夢

赤堀さんは2022年9月12日、新たな夢ができました。ダーツと出会ったのです。クラスというダーツバーで、真鍋明雄プロに出会ったのです。

ただ、かっこよかった。手を離れたダーツが中心に吸い込まれていく。
これを見てダーツうまくなりたい、プロになりたいと強く思うようになりました。それからマイダーツを購入し、練習を始めます。ダーツバーに通い練習を行いました。

鈴木未来というダーツの世界女王がダーツのレーティング10を達成し、デビュー1年でプロ入りを果たします。鈴木さんは赤堀さんの目標になりました。そして、2023年4月23日、赤堀さんの誕生日翌日に鈴木選手が来るプロのイベントがありました。そこに赤堀さんは行き、鈴木さんに会い、さらにサインと誕生日プレゼントまで頂いたのです!

 

鈴木選手と赤堀さん

鈴木選手と赤堀さん

 

ダーツプロへ

ここからダーツにかける熱がより増していきます。1年後には同じ土俵に立ちたい、そう思いなんと半年後の2023年9月23日にプロの資格を取りました。また夢を叶えたのです。このプロになったことは、恩師・加藤先生にも伝えに行きました。自分のこと以上に心から喜んでくれたのでした。

 

ダーツプロの試験に合格

ダーツプロの試験に合格

 

恩師・加藤先生に報告

恩師・加藤先生に報告

 

現在は年18回、18箇所でおこなわれるダーツのプロツアーを回っています。ダーツのプロは日本に2チーム存在するのですが、関西はジャパンレディースというチームが中心で、赤堀さんも鈴木さんもこのチームに所属しています。まだ、全敗ですが、めちゃくちゃ楽しいと赤堀さんは言います。絶対に勝ち進み、優勝するのが今の夢だ。そうはっきりと言い切りました。12月にはインテックス大阪で試合があるので、応援してほしい、そうおっしゃいました。

 

赤堀さんのダーツ

赤堀さんのダーツ

 

赤堀さんとダーツ

赤堀さんとダーツ

 

マイノリティが輝ける世界を

赤堀さんは自分がダーツプロとして結果を残していくことで、障害を持っていたとしても努力は必ず報われる、夢は叶えられるんだということを示していきたいと考えています。障害を持っていてもなにも諦めないでいい、何でもできるんだと。すぐに結果は出ないかもしれないが、必ず次はダーツで優勝し多くのマイノリティの人に勇気を与えるため、諦めず頑張っているのです。

 

EVERと赤堀さん

赤堀さんはEVERに来る前もシェアハウスを転々としていたのですが、きちんとしたシェアハウスはEVERが始めてだったそうです。EVERでは月に一度、入居者が集まって定例会を行っています。10月27日には、赤堀さんがプロになったことを入居者の皆がダーツバーに行きお祝いしてくれました。

「本当に嬉しく、楽しかった。毎日が楽しかった。家族ではないし、彼氏彼女でもない、感覚は大家族の兄弟のような存在。」そう言いました。

困ったときはあったけれど、助け合いながら生活する毎日は幸せだったのです。

夢を叶えた赤堀さんはEVERを出て、京都の別のシェアハウスを拠点にダーツで全国を巡る生活をしています。EVERを出ていますが、他の入居者の誕生日にはケーキを作って持っていく約束もしているのだとか。

 

EVER入居者と赤堀さん

EVER入居者と赤堀さん

 

今後の赤堀さんの活躍が楽しみですね!

最後に

弊社インスタグラム

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その他の入居者の記事はこちら

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次回もお楽しみに。

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