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【Whatever SHIMOGAMO入居者紹介】 リードクリエーション株式会社 新宮 秀也(しんぐう しゅうや)

2023.10.6

Whatever Shimogamo入居者紹介

Whatever Shimogamoの入居者様を紹介しております。

本記事では、リードクリエーション株式会社 代表取締役社長の新宮 秀也(しんぐう しゅうや)さんを紹介します。

 

Whatever Shimogamoでの新宮さん

Whatever Shimogamoでの新宮さん

 

幼少時代

新宮さんは愛知県みよし市の出身です。

小学校までは名古屋で団地住まいをしていました。
新宮さんが住んでいた地域は治安もあまり良くはなく、十五の夜の歌詞に出てくる世界のようでした。

新宮さんは4人兄弟の末っ子で双子の弟です。幼い頃は、常に双子の兄と一緒にいました。常に2人でいたため、幼稚園ではほかにすごく仲の良い友達はいませんでした。またよく似ていたため、常にではありませんが比べられることもしばしばありました。

 

小学校時代

小学校は公立校に入学しました。学校では目立つタイプでもいじられるタイプでもなかったのですが、クラスの中心にいるような生徒でした。そのため友達はある程度いましたが、若干浮いているように感じていたそうです。友達より兄と2人でサッカーをするなどして遊んでいました。

また、部活動でもサッカーに打ち込んでいました。担当の先生が熱心な方で、週に4-5回練習していました。公立校ながら、良いメンバーが集まっていたこともあり、地方の大会でベスト8まで進むことができました。

6年生のときに、4年生の子にレギュラーの座を奪われます。奪われたことで、自分の向き不向きと自分が持っているもの・自分にないものを考えます。そして、何か一つ突き抜けようと考えました。サッカーにおいてはボールをただ遠くに飛ばすキック力1位を目指し成し遂げました。

新宮さんは昆虫を拾ったり、ミニ四駆などの機械を分解してタイヤやモーターの改造を行ったりしていました。驚くことですが、後者の改造は誰に教わるでもなく、興味を持ち自分で考え、勉強し、できるようになったのでした。工作や美術が好きなのでした。

 

周囲と自分の違い

そんな新宮さんですが、勉強はほぼしていませんでした。4人兄弟で親も忙しく、新宮さんはほったらかし状態で育ちました。そのため勉強しろといわれることもありませんでした。学校のテストでも一桁の点数をとることは多く、そのたびに悔しくて泣いていました。

「なんでできないんだろう。」

周囲の子どもができることが自分にはできていない。
幼いながらに、良くも悪くも周りとの違いを感じました。

新宮さんは団地に住んでいたため、周囲に住む人々も含め裕福ではありませんでした。
しかし、学校には裕福な家庭で育った子も存在し、そういった部分でもなんとなく自分と人の違いを感じていました。

新宮さんの父は喫茶店を経営していました。
ある程度うまくいっていたのですが、お父様は働くことに疲れ精神的な理由で、開業後1-2年で喫茶店を閉めてしまいます。新宮さんが小学校低学年の頃の話でした。

その後、喫茶店の経営で出来上がった借金の返済などを行ったため、当時の新宮家にはお金がありませんでした。ご飯に水をかけて食べるほどだったと言います。

自分の成績、貧富の差の存在から新宮さんはうまくいく人とうまくいかない人の違いを真剣に考えるようになりました。考えれば考えるほど、自分は自分の現状もわかっておらず、将来うまくいかない道しかないのではないかと考えていました。

 

中学校時代

中学校に進学した新宮さんは、黙っていれば自分は馬鹿にみられることはないと気づきます。しかし良い成績は全く取れません。中学校に上がるとテストで順位が出ます。新宮さんの学年は、30人3クラス91人の学年です。そして新宮さんは初回のテストで91人中86位という結果でした。

今までは順位が出なかったため、漠然と成績やばいなということは認識しつつもそこまでの焦りを感じてはいませんでした。しかし、他人と比べられ自分の現在位置を認識させられたことで「やべえ。」と、自らの現状を直視します。

新宮さんはまず、勉強ができる人と自分の違いを把握することから始めようと考えます。自分の周囲の勉強ができる人に聞き込みを行ったのです。

「何をどうやって勉強しているの?」
新宮さんは勉強の中身を尋ねるのではなく、勉強法を尋ねて回りました。勉強法を能動的に考えたのです。

さらに、今まで漫画すら読んだことはありませんでしたが、本を読んで学習するということを経験しました。こうして勉強に対して向き合うようになり、91人中30位くらいまで順位が上がります。
学校にはヒエラルキーが存在します。当時、小学校だとスポーツができる人がすごく、中学校だと勉強ができる人もしくはやんちゃをしている人はすごいといったものでした。新宮さんも一瞬、やんちゃしてヤンキーの道に入りそうになります。しかし、双子の兄に止められ
非行少年にはならずに済みました。

 

運命の受験

新宮さんの地域では公立校を二校受験することができました。そのため、第一志望の高校と滑り止めの全く行きたくない高校を選択し出願しました。双子の兄も同じ学校に出願しました。

新宮さんは受験に対して楽天的でした。あまり勉強せず、自分は受かるだろうと高をくくっていた部分がありました。そして、受験が終了し新宮さんは第一志望に通らず、滑り止めの高校にしか受かりませんでした。第一志望の高校は決して最高位の学校というわけではありませんでしたが、新宮さんは受かりませんでした。あまつさえ、双子の兄は同じ第一志望に合格していました。

「落ちた、どうしよう。」
新宮さんは滑り止めの学校にも私立の学校にも行きたくはありませんでした。滑り止めの高校はヤンキーだらけ、私立に行くのは家系的に厳しい。結局、いやいやながら滑り止めの高校に入学することに決めました。

学校の説明会に行くと、髪の毛を染めていたり、ピアスを開けていたりと、やんちゃそうな子がたくさんいました。
「この中でやっていけるのだろうか…」
見下すわけではないが、大丈夫なのだろうか…と不安に満ちた高校生活がスタートしました。

 

高校生時代

そんな学力レベルとしても低い高校でしたが、新宮さんは成績上位をとることができませんでした。全然自分ダメじゃないか、このままじゃ何もなせないと思い、先生に聞くことにしました。

そして先生から、宿題とは別に問題ももらい、学習を進めるようになりました。勉強に本気で打ち込むようになり、順位もメキメキと上がりました。良い先生たちに恵まれたことに、新宮さんは今でも感謝しています。1年生のうちに特進コースに入りオール5の成績を取得し、高2高3でもオール5をとり続けました。

部活はサッカーをやめてカヌー部に入りました。元々新宮さんの地元ではカヌーが盛んなこともあり、何か違うことをやってみよう、そして個人競技をやってみようと思っての選択でした。個人競技の方が性に合っていたこともあり、新宮さんはカヌーにのめりこみました。個人競技は、自分の現在地を把握して、正しいやり方でやり切れば結果につながるからです。

また、カヌーは競技人口が少ないことも魅力でした。人口が少ない中で精一杯の努力をしたこともあり、高2高3と全国大会に出場することができました。

勉強とカヌーの経験から、新宮さんは「自分の力をかけるべきところにかけないとだめだ。」と感じます。人と同じことしても仕方ない。皆が右に行ったから右に行くのではなく、あえて左に行ってみる。自分の持つ力やポテンシャル、向き不向き、強み弱みを考慮して、選択する。それが大事なのだと。

 

大学生活

大学受験はAO受験を行いました。自身の経験から成るカヌーの上達理論を話し、見事静岡大学工学部に合格します。この進路選択は先生が提案してくれたものでした。何かをデザインしたい、モノを作りたいという思いを持っていた新宮さんですが、先生に進路相談をする中で、素材や構成からデザインするために化学を学んでみるのはどうかと言われ、この選択をしたのです。

大学で化学を勉強する傍ら、就活を進めていた新宮さんは漠然と将来独立したいと感じていました。大企業に行って飼いならされ、歯車になるのは嫌だ。そうならない道をどう作るか考えていました。

また、アート系の道で整形を立てることも考えましたが、なかなか食っていけないことと、将来子どもに自由な選択をさせられる余裕が欲しいと思い断念しました。

当時、ホリエモンなどのITバブルが訪れていました。これだと思い、プログラミング未経験者でもシステムエンジニアとして働ける会社を探しました。そして、保険会社や銀行の基幹システムを構築する会社に就職しました。新宮さんは3年勤めてやめようと考えていました。その間に自分がやりたいこととできることを見つけ、独立に向けて動きたいと感じていたからです。

 

新卒一社目

新卒で入社した直後の研修は体育会系の昔ながらのものでした。山奥の合宿所で走り込みなどを行うものでしたが、新宮さんはチーム対抗のランでリーダーシップを発揮し1位になりました。

入社した会社は受託開発を行う会社であったため、受託先の企業に出向して開発するのが普通でした。2011年、そうして出向先の千葉で開発にいそしむ中で東日本大震災が起こったのです。新宮さんの勤め先はビルの高層階なので、風でビルが揺れることはよくありました。しかし、東日本大震災の際は、風による横揺れではなく、突き上げてくるような縦揺れでした。
これはやばい、と命の危機を感じ、下に降りようとすると、非常事態にもかかわらず仕事を続ける人が多くいました。これを見て新宮さんはさらにやばいと感じました。

「思考停止だ。」
緊急事態を身をもって体験しているにもかかわらず、緊急時対応ができない人。歯車として生きることを選んだ人。これが現実、こうはなりたくないと強く感じました。そして、震災から約半年たって1社目の会社を退職しました。

 

人生の転機

この1社目に勤める間に、新宮さんには大きな人生の転換点がありました。結婚です。
出会いは入社説明会の日の駅でした。新宮さんは一目ぼれし、この人とお付き合いをしようと思いました。その後、結婚し子どもを授かったのです。

奥さんが産休に入る際、勤め先の会社が吸収合併されました。そして、「どうする?」と辞めるかどうかの選択を突き付けられました。そして半分辞めさせられるような形で奥さんは会社を後にすることになります。新宮さんは会社に情や責任ってないんだなと感じることになりました。

 

オンラインショップ経営、しかし

退職後、最初はネットショップを運営して稼ごうというセミナーに参加します。このセミナーは参加費が4-5万円と高額で、当時お金がなかった新宮さんは奥さんに相談して行くことを決めました。実際にセミナーに行くと、現在のオンライン物販で稼いでいるような人たちが30人ほど来ていました。このセミナー参加は、新宮さんの一つの転換点となりました。そして、電子教材を4-5万円で購入し、オンラインショップ運営を行おうと腹を決めました。

オンラインショップ運営を行うにあたって、千葉にいる理由は特になかったため、奥さんの京都の実家に戻ることにしました。居候のような形で個人事業主を開業したのです。

自分のネットショップを開設し、商品は無在庫で、消費者の注文に応じて海外のショップから配送していました。ただ、何千個もある商品の画像登録から販売までの作業をすべて人力で行っていたため、手が足りない、やってられない状態でした。そこで、システムをつくってもらおうと考えました。外部のECサイトのデータをとってきてもらってCSV化してもらうシステムを外注しよう。そう思い立ち、クラウドワークスでインド人の方に依頼し、5000円ほどでつくってもらいました。その結果、ネットショップの構築が圧倒的に効率化され、一気に作ることができるようになりました。

電車の模型、ベビーカー、まだ日本ではやっていない服のブランドなどのネットショップを、同時に最大で4店舗ほど運営していました。どれもそこそこ売れたのですが、ネットショップの運営以外の経験があまりない新宮さんは、資金管理や顧客対応などに苦心します。顧客の注文後に海外から商品を仕入れる仕組みなのですが、海外からの発送が予想より遅いことも往々にして良くあることでした。そのたびにお客さんから「何時に届くの?」などとクレームが多数寄せられ、新宮さんは鬱になってしまいました。

顧客対応や在庫管理といった細かい作業は自分に向いていないということを痛感することになりました。

鬱になったこともあり、半年ほどでネットショップ運営を切り上げました。売上は数十万円ほどあったものの、利益が出ているかもわからない状態でした。

また、京都の奥さんの実家に戻ったことでさらに問題になった部分もありました。仕事がうまくいっているわけでもない中、2人目の子供ができたこともあり、義理の家族からの不信が募り、一時は離婚の話までも出てしまったのです。

このように2012-2013年は、気持ちも経済的にもどん底だったと語ります。

しかし一方で、「失敗を望んでいた自分もいた。」と新宮さんは語ります。とんとん拍子でうまくいく人生などないと思っていた自分もいた、そう思っていたから失敗したのではないか。もしそうなら早めに失敗できてよかったのではないか。これ以上どん底なことってないよね。そう考えたのです。

 

もう一度サラリーマンへ

しかし、一人でやっていくには精神が限界でした。そのため、第二新卒のようなふるまいでもう一度就職します。就職した先の会社は様々なサービスの権利を買って、関西圏で売る会社でした。新規事業も多く行っており、営業出身の経営者も多くいるから色々なサービスを営業できる会社に行こうと考え、この会社を選びました。当時、新卒の社員が3-4人、中途の社員が4-5人の規模でしたが、新宮さんの入社後半年で中途社員が半分辞めてしまいました。

しかし、ルート営業を行っていると聞いて入社したにもかかわらず、この会社での営業はルート営業ではなく新規営業(テレアポや飛込)がほとんどでした。また、京都勤務と聞いていたにもかかわらず、実際には大阪勤務でした。
「言っていることとやっていること違うなあ。」
とギャップは感じつつも、辞めるつもりはなくとにかくやりきりました。ただひたすら新規顧客とのタッチポイント創出や関係構築を行いました。

その結果、社内で営業成績トップになり、1か月で2,3件の新規契約を結ぶことに成功しました。

また、新宮さんはその企業のベンチャー的な動きを見るのは楽しかったと言います。若く勢いのある会社だったため、熱のある人々も世にいるんだなと感じることができました。そこから、自分ももっと頑張ろうと良い影響を受けていました。

3-4か月ほど新規営業を行いましたが、このやり方では続かない、再現性がないと感じ、当時の社長に進言します。すると、違う部署に異動してみるかと言われ、新宮さんは異動し携帯電話の営業を行うことになります。これはしんどかったと言います。

法人営業と言いつつも、個人事業主の店舗に電話して法人携帯の導入はどうですかという営業を行っていました。今考えるとそこまできつい仕事ではないと思うが、当時は顧客にメリットがないと感じており、苦しいものがありました。そこでも営業成績トップの結果を残すことに成功しました。

この会社で働く中で、営業の裏側を知ることができたと言います。給料は安く、継続してやりつづける仕事でもなく、そこにいる人の質も悪い。そういう人を集めていると感じました。そして、システムエンジニアと比べると圧倒的にきつい仕事だったと感じました。

しかし、新宮さんは自己成長の意味を問い続ける人です。そのため。SEのその先は?とも感じたのです。ぬるま湯で働いても、そこから出たときに何も自分に残らない。それならきつい仕事をして自分に少しでも力をつけていったほうがいい、そう考えているのです。きつい仕事も経験すれば、リストラや会社の倒産で困ることはなく、人生の浮き沈みの波を恐れることはなくなる。自分が必死で働き成長できることがありがたいと言います。

また、サラリーマンは怖いとも言います。やめられなくなる、チャレンジできなくなる、その生き方は怖いと。どんな人でも、良い企業に入って成功するとやめにくくなります。そのため、新宮さんは新卒の際もそこまで人気がある企業には入りませんでした。入って辞められなくなり、最期に人生を後悔したくないと考えたからです。

 

再転職

働く中で、新宮さんはもう一度自分でやることに挑戦したいと思いました。当時、子供が二人いて、当時の給料ではしんどいという思いもありました。そのため、基盤を安定させるために、給料のいいところに一旦就職し自分でやる準備もしたいと考えました。今ほど転職が当たり前ではない当時ではありえない4回目の転職を決意したのです。これには、兄弟からも心配や反対の声が寄せられましたが、新宮さんは転職を行いました。

転職先の会社は、事業は安定しており、ノルマもなく、オフィスもキレイ、前職の1.5倍の給料という好条件のそろったクレジット決済代行会社でした。新規参入を許さない業界で、かつストック型の手数料ビジネスであるため堅い企業だったのです。年商は10億円規模で、役員はいないため社長にすべての決定権がある会社でした。

会社にはナンバー2がいないため、社長に対し誰も反対意見を言うことができない、ワンマン経営の最たる会社でした。社員は高学歴かつ体育会系、かつ出身が金融系の人がほとんどでした。上司も営業をしている人で筋肉もムキムキの方でした。

今まで自分がいた会社と文化が全く違うため、その会社の文化を徹底的に叩き込まれました。メール一通にダブルチェックを行うなど、ミスを未然に防ぐことが徹底されていました。今までにない環境で、新宮さんは周囲や上司から「使えないやつ」だと思われていました。しかし何度も泣きながら必死に食らいつきました。

新宮さんは当時、再び鬱っぽい状態になっていました。それもあって、仕事をやりながら副業として、サイト・メディア運営を始めました。お金を稼ぎ、基盤を作って落ち着いたタイミングで、自分でやることを本格的にスタートさせようと考えたのです。そして、自分に向かないことを排除したことをやろうというのも決めていました。

会社の研修の際、新宮さんは社長に質問を多数投げかけました。すると社長に気に入られ、社長の邸宅や高級バー、タワーマンションの屋上などを案内してもらいました。新宮さんは裕福な暮らしを見て、良くも悪くもこういう世界もあるんだなと感じました。

新宮さんは社長に様々な場所へ連れて行ってもらった際に、どうしたら成功するんですかと尋ねました。すると社長は、今だったらポータルサイトがいいんじゃないかとおっしゃったそうです。

それから新宮さんはサイトの運営を始めます。半年くらいは鳴かず飛ばずで、その後も浮き沈みはありながらも何とか軌道に載せることに成功します。2年程かけて1つのサイトを集中して構築・展開し、サラリーマンと同額程度は稼げるようになります。そして、その翌年には4-5倍の金額を稼げるようになりました。

 

新規事業と自分の事業

会社で仕事に励み成果を残す中で、新規事業を行う子会社を立ち上げたいと思い立ちました。そこで上司に、「ポータルサイトが今増えてきて、このプランならきっとうまくいきます。」と提案を行いました。しかし、上司に渡すと上司はこれを保留としてしまったため、社長に直談判しに行きました。ですがこれが再び上司の耳に入り、新宮さんはこっぴどく怒られます。

ここで言葉だけの提案ではなく、実際にでき御上がったものも見せて納得させようと考え、自分でサイトを立ち上げます。実際にサイトは波に乗り、成果を出すことに成功しました。
月当たり10万円〜20万の売上という成果を自分で出すことに成功すると、これ自分でやった方がいいなあという思いが芽生えます。自分で作ったのに、会社のものにする必要があるのだろうかと迷いますが、成果も出ているから会社の事業としてやりましょうという提案をもう一度行いました。

「結構いいじゃん。会社で本気でやったらいいじゃん。」
と採択され、新宮さんのサイトは会社の一事業となりました。しかし、新宮さんは最初プレゼンしたときほど会社でやりたいという熱はなく、PJリーダーになるもののうまくはいきませんでした。

 

リードクリエーション開業

退職の1年前に法人化を行いました。その際、新宮さんは事業売却を行ったのですが、売却の基準額が3億円であることを知らず、1.4億円での売却をしてしまいます。さらに、この売却で得た資金で次の事業を行うのではなく、ビットコインなどに約半分のお金をつぎ込んで溶かしてしまいました。売ったお金で回していけたらいいと、ふわふわした気持ちで浮かれていました。しかし、失敗しお金や人の怖さを知りました。そして、こんなことしてたらいけないと考え、もう一度自分の手で事業を始めたのです。

リードクリエーション株式会社の社名の由来は、マーケティング用語の「リード」からとっています。この原点はお父様の喫茶店です。どんな商売でもお客さんが来ないと成り立たない、集客が肝だよねという部分があります。全体的なマーケティングを行い、集客動線をどう作るかが大切です。集客に強い、それを支援できる会社になろう、父親みたいな人を救える会社になろう、そう思いこの社名にしました。

 

リードクリエーション株式会社HP

リードクリエーション株式会社HP

 

リードクリエーション株式会社会社概要

リードクリエーション株式会社会社概要

 

会社に込めた思い

さらにDXやマーケで人々に価値を届けるだけではなく、サラリーマンという生き方しか知らずにもやもやとしている社会人に、そうじゃない生き方があるというところを伝えたいとも考えています。この人たちを変えても直ぐに世界が変わるわけではないですが、いきなり大きな世界を変えることはできない。だから一人ずつ変えていくんだと考えています。

また、子どものころからサラリーマン以外の世界を体験できるキッズ起業塾の経営なども行いたいと考えています。実際に新宮さんのお子さんにも、自宅でキャッシュフローゲームというゲームを行ったり、株の管理画面を見せたり、意図的に投資系やビジネス系の書籍・漫画を読ませたりしています。お子さんは会社をやりながら研究したいと言ってくれているそうです。

新宮さんが働くうえで大事にする価値観は、時代に乗り変化に適応することです。生きる上で、周囲は絶えず変化していきます。その中で常に成長し、死ぬその時まで成長し続けられるように、変化に対して柔軟であれと考えています。

 

Whatever Shimogamoにて未来を見つめる新宮さん

Whatever Shimogamoにて未来を見つめる新宮さん

 

Whatever Shimogamoと新宮さん

新宮さんは現在Whatever Shimogamoの一室をオフィスとして利用されています。

他者との違いを認識しながら、変わりゆく世界に適応し前に進み続ける方です。

新宮さんとお話ししたいという方はぜひWhatever Shimogamoまでお越し下さい。

また、インスタグラムでも新宮さんの紹介を行っております。

 

弊社インスタグラム

https://www.instagram.com/whatevershimogamo/

 

リードクリエーション株式会社HP

https://leadcreation.co.jp/

その他の入居者の記事はこちら

https://whatever-produce.com/member

 

次回の紹介もお楽しみに。

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