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【Whatever SHIMOGAMO入居者紹介】 KAMODEL 高橋 智(たかはし(ゴリ))

2022.11.24

Whatever Shimogamo入居者紹介

Whatever Shimogamoの入居者様を紹介しております。

本記事では、KAMODELの高橋 智(たかはし(ゴリ))さんを紹介します。

 

幼稚園時代

高橋さんは通称「ごりさん」と呼ばれる、Whatever Shimogamoの頼れる存在です。

最近はもっぱら日本シリーズの話題で持ち切りな高橋さんの人生を見ていきましょう。

 

高橋さんは寝屋川生まれで、幼少期を主に寝屋川と埼玉県浦和市を行き来し、小学3年から高校卒業まで寝屋川で過ごしました。

 

幼稚園入園前から非常に好奇心旺盛でやんちゃな子供でした。 そのため、けがが多く何度も縫わなければならないようなけがを負っていました。

例えば、歩行器に乗って廊下を猛スピードで突っ走って歩行器ごと階段から転げ落ちたり、舗装されていない道路の土をなぜか家に持って帰って散らかしたりとやらかしては怒られるのが日常でした。

3歳頃のある時、補助輪が付いた自転車に3人乗りをしていました。高橋さんは一番後ろに乗って、その不安定な状態で坂道を下りバランスを崩して自転車は横転し、高橋さんはふくらはぎをざっくりとケガしてしまいました。これがはじめて大きく縫ったけがでした。

 

他にも側溝に入って遊び、側溝のコンクリから飛び出ている釘でなんか気も体を傷つけたり、けがをしたのに同じ側溝に入って同じ場所をけがしたりもしていました。

 

このように幼少の記憶はけがに関連したものばかりが残っています。

 

幼稚園は自宅からとても遠く、送迎バスが本来あってもよいほどの距離を30分以上かけて歩いて登園していました。ひたすら坂道も多かったためそれなりに体力を必要としていたのでした。

 

高橋さんは、そんな幼稚園の登園拒否を二回したそうです。その理由はお弁当の中身が気にくわないからでした。カラフルな弁当がいいのに、全面一色の弁当の時があり、それが本当に嫌だったそうです。そして、登園途中に嫌になり家にとんぼ返りし、お母さんに「幼稚園があいていなかった」と嘘をついていたのでした。当然幼稚園は開いているので、ばれて怒られていました。

 

他にも、幼稚園がまだ開くはずもない真っ暗な早朝に家を出て登園し、開いていない門をよじ登って園庭の遊具でひとり遊んでいたこともしょうっちゅうでした。園庭のザクロの木によじ登り、ザクロの実を採っては食べていると、地上から先生に他の子にも採ってあげないさいと言われたので、猿蟹合戦のサルのように木の上から下の子達にザクロを投げつけたりしたこともありました。

幼稚園の行事でクラス単位でのスイカ割りをした際には、自分の番が回ってくるまで友達のミスを観察しながら、スイカと棒の振り下ろした位置の誤差や角度差を念頭にイメトレし、自分の番でスイカを粉々に破裂させることに成功しました。おかげで高橋さんより順番が後ろだった生徒はほかのクラスのスイカ割りの列に並ぶことになりました。

 

幼稚園内でもこのようにやんちゃな高橋さんでしたが、あきれられていたのか、容認されていたのか、あまり怒られることはなく、愛されて伸び伸びと育ちました。

 

とにかくけがの多い小学生活

小学校2年生までは埼玉で過ごしました。小学校でもやんちゃなのは変わらず、先生を困らせたり、何かにつけて喧嘩をしたり、教室で授業中に教室横の非常階段でグリコをしたりしていました。虫をつかまえて家に放すことは日常茶飯事で、家に卵を孕んだカマキリやカエルを持ち帰り家で孵化させて家中をカマキリやオタマジャクシまみれにしたこともありました。

なんと、1年生と2年生だけで4回も縫わなければならないけがをしました。

そのうち3回は膝の同じ場所でした。 膝を初めて縫ったけがをしたときのことは今でも鮮明に覚えています。 校庭から少し離れた場所に第2グラウンドがあったのですが、そのグラウンドにはスズメバチが巣をつくっていました。高橋さんらはじゃんけんをして負けたやつが巣を棒でたたくゲームをしていました。高橋さんはじゃんけんに勝ち、友達が巣をたたくところを見ていました。 「ゴンッ」と音を立て巣が割れると、巣の中から大量のスズメバチが飛び出してきて、高橋さん達を追いかけました。これはまずいと思い、猛ダッシュで逃げました。なんとか校舎まで追われつつも逃げ切り、校舎の扉を超えようとした瞬間、靴裏の土を取るためのグレーチングにつまずき、金属製の太いレールに左ひざをぶつけてしまいました。その後の記憶は激痛を感じたことしかないそうです。

1回目のけがは、一回目のひざのけがの抜糸をするくらいの時期でした。野球をして遊んでいた高橋さんは3塁からHBに滑り込んで、同じ左ひざを痛めてしまいました。これにより縫いなおしをする羽目になりました。何度も縫うレベルのけがをしていると、けがの痛みより、抜糸や縫合の痛みを体が覚えており、いやになってしまうそうです。今でもその痛みは忘れられないのだとか。ですが、その後も自転車から落下して頭を縫い、同じことを繰り返し、何度も怪我を繰り返すのです。

小学校後半から、大阪・寝屋川に引っ越しました。引っ越して転入した当初は、東京弁を喋るよそ者として馬鹿にされましたが、二学期にはもう馴染んでいました。学校では、学級委員や体育委員などのリーダー格の役割を多く勤め、運動会などでは大活躍をするクラスの中心人物でした。年中半袖半ズボンで過ごしたり、クワガタ相撲をしたりと年相応の遊びをして楽しく過ごしていました。

もちろん小学校高学年でもけがをします。祖父の畑で草刈りをしていた時のことでした。伸びきった草は高橋さんの身長ほどの背丈があり、草を刈る手元は見えない状態でした。その状態で鎌を使って草刈りを行い、勢いあまって自分の足をざっくりと刈ってしまいました。骨が見えるほどのけがでした。この時もけがの痛みより、また縫わなければならないのかという感情が襲ってきたそうです。  

 

書けないことばかりの中学生活

中学校には行きたくありませんでした。寝屋川の中でも特に荒れていた学校だったからです。書けないことが多いですが、相当な事件が何件も起きていたそうです。行きたくはなかったのですが、公立校は学区が決まっていたため行かざるを得ませんでした。また、高橋さんは団塊ジュニアと呼ばれる世代で人数の多い学年でした。そのため、1学年に48人学級が14クラスもありました。そのため、急遽仮設のプレハブの教室が建てられたそうです。

購買のパン屋が万引きでつぶれたり、学校の校庭で決闘が起こっていたり、学校中の窓ガラスが割れていたりと15の夜の世界がそのまま現実にありました。そんな悪ガキの多い学校でしたが、案外友達としてつるむのは楽しかったそうです。

授業は全く真面目には受けていませんでした。授業中も事件ばかりだからです。事件がないときも先生に授業をさせないようにクラスのみんなで団結して、先生に趣味の話や旅行の話をさせることに尽力していました。

勉強はしていなかったのですが、3年の1月の実力テストで赤点を取ったことを受けて焦って猛勉強します。1か月半猛勉強し、寝屋川学区2位の寝屋川高校に合格しました。進学校に行きたかったわけではないのですが、家から徒歩3分と近い寝屋川高校に行きたかったためがんばったのでした。 いろんな汚いものを見てきた中学校時代でした。  

 

周囲と自分の違い

高校は進学校でした。しかし勉強は変わらず真面目に取り組まず、ラグビーに励んでいました。顧問の先生に怒られながらもめげずに毎日頑張っていました。体育祭や文化祭にはラグビーの公式戦がかぶってしまい、参加できませんでした。

団塊ジュニアの世代で生徒数が急増していたため、高校にもプレハブの仮設教室が存在しました。プレハブの仮設というだけで人気がなかったので、いやなイメージがあったのですが実はエアコンが完備されており快適な教室でした。3年生の時にこの教室に当たりましたが結果、良かったそうです。

受験期になっても、真面目に勉強していなかった上に将来のことなど考えてもいなかったので、進みたい進路はありませんでした。また、ラグビーで勝ち進んでいったら、11月くらいまで試合があるため、試合が終わってようやく受験のこと、進路のことを考え始めました。もちろん、周りの友人は進路を決め、受験対策に励んでいる期間です。高橋さんにとってはこれが不思議でなりませんでした。なぜ、将来のやりたいことが明確にあってここに行くと言えるのか分からなかったのです。高橋さんは、やんちゃばかりで勉強も真面目に取り組んできませんでしたが、ニュースや新聞で様々な情報をしっかりと取り入れていました。このように社会のことに触れているのに、自分のやりたいことが見つからない、これはおかしいのだろうか、周りの子たちが正しいのだろうかと悩んでいました。

そしてそんなもやもやを抱えたまま、どうしようかと悩んでいたころ、書店で留学の本が目につきました。その本をぱらぱらと読んで、日本の大学と海外の大学の違いを知りました。海外の大学では、興味のある授業をとっていってこれがすべて卒業のための要件になります。これが自分に合っていそうだなと感じたのです。まだ明確にやりたいことのない自分は、これになりたいから○○学部に行く、という選択ができない。だからこそ、興味のある授業を横断的にとり、様々な物事を知って進路を決めていけるアメリカの総合大学が合っていると感じたのです。  

 

いざ海外へ

やると決めたら行動はすぐでした。アメリカ領事館に行って情報集め、渡航資金を貯めるためにバイトを始めました。そして、6月からアメリカ・ジョージア州の大学に入学したのです。 余談ですが、この留学に際し、日本出立時に滋賀の同年生と成田空港の南ウイングで待ち合わせだったのですが、電車を乗り間違えて空港の待ち合わせ場所に1時間以上遅れで到着したうえ、何食わぬ顔で現れたため、向こうの見送りのご家族は呆然としていました。

いよいよスタートした大学生活。もちろん英語は話せません。そのため大学に付属している語学学校に入れられました。大学のある街は、ジョージア州のなかでも田舎で、2人の通っていた大学は全米一授業料が安い大学でした。留学生は州内の学生の3倍の学費なのですが、それでも一学期の授業料は15万円と破格の値段でした。さらに、一定の成績を修めれば州内の学生と同じ値段にディスカウントされる仕組みもあり、年間で高くとも30万円弱用意しておけば授業料に足りるのはとてもありがたいことでした。このように破格の値段も相まって、100人くらいの留学生がいました。高橋さんは語学学校で早々と優秀な成績を修め、冬学期1月から正規の大学生として授業に編入しました。  

 

理想の大学生活

大学には、理想とする環境が整っていました。好きな学部の授業を好きなだけ取ることができる、本当に幸せなことでした。地下1階から3階まである立派な図書館も構内にありました。蔵書数が多いのはもちろんのこと、まだパソコンが流通し始めた時期にもかかわらずパソコンが1フロア分あったのです。この施設を365日24時間使い放題でした。これには唖然としたそうです。

また、通っていた大学は全米で1番パーティーが多いことでも有名でした。そのため、平日のキャンパス内のあちらこちらでパーテイーが行われていました。自由に学べる環境もありつつ、自由に遊べる環境もあったのです。さらに、ゴルフ場も大学の周りにたくさんありました。しかも学割が使え、ゴルフカート使い放題で1ラウンド900円とこちらも破格の値段でした。人生で一番勉強して、一番遊んだ時期でした。

ジョージア州は田舎であったため、足となる車がないとどこにも行けない現実がありました。そのため、バイクと普通車の免許の取得を行いました。どちらも日本円換算だと約500円で2日で取得できるという破格のプログラムでした。日本だと考えられないですよね。

その後はアメリカを車でいろいろと回りました。時には犯罪に巻き込まれそうになったり、バイクに乗った変質者に追いかけまわされたり、暴漢集団に車を囲まれリンチされそうになったりしましたが、楽しい毎日でした。  

 

日本へ

結果として、アメリカには2年半ちょっと留学をしました。単位は好きなだけ取ることが可能なので、この期間で卒業することができました。そして、建築をやりたくなったため、日本に戻りました。在籍していた大学には建築学部がなかったのです。

日本で夜間の建築専門学校に入りなおし2年間建築について学びました。建築専門学校時代は、昼間は設計事務所で構造計算や意匠設計のバイトを行い、夕方から夜まで建築の勉強、夜はホテルの夜勤と、ほぼ寝ずの生活を送っていました。ホテル夜勤の仮眠の時間しか寝ていないのが実情でした。  

 

いざ社会人生活

卒業時には学業成績が優秀であったため、大阪府知事賞を受賞したそうです。 意匠設計もかなりの評価をもらっていたのです。ゆえに、卒業後も高橋さんにはいろいろな事務所から引っ張りだこで声がかかりました。高橋さんが在学中に働いていた事務所も大きな事務所でだったのですが、正社員の方は事務所に寝袋を持ち込んで泊まり込みで働いており、その働き方は自分には無理だと思い、住宅メーカーの営業職に就職しました。営業もうまくいき成果を出していましたが、会社が倒産してしまいました。

その後はファイナンシャルプランナーになりました。ファイナンシャルプランナーになる際には、資格ビジネスの母体がもうかるのが嫌でFPの資格をとりませんでした。  

 

人材系からITの世界へ

次に高橋さんは医療系の人材紹介会社に行きました。ここから高橋さんのIT人生が始まります。当時、日本に医療系の人材紹介会社は存在せず、医療系人材紹介会社の先駆者のような会社でした。高橋さんはこちらに入社後すぐにマネージャーとなり、医師、看護師、歯科医師、臨床医専門のマッチングサイトを作成しました。 医学生は自由に就職先を選びたい、経験を積んでいきたいと考えているのに対して、大手大学病院は自分たちの指示通りに配属や採用人数を決めたいという齟齬が生じていました。 そのため高橋さんは、大手病院にこういった学生の希望があることを説明・営業をしに行きますが当然最初は聞き入れられませんでした。しかし、臨床研修医制度が開始されると既存の就職ルートではない高橋さんらのサイトに多くの医学生が流出し、大手の大学病院は大打撃を受けました。そして、臨床研修医獲得の相談を頼み込んできたのでした。

このようにかなり順調に進んでいた高橋さんですが、会社は休みがなくブラックだったこともあって体を壊してしまい、退職します。

続いて、高橋さんは退職した会社の人が独立し人材紹介業をするから手伝ってほしいと言われそちらを手伝うことにします。看護師の人材紹介事業を行いましたが、看護師は高級人材であり、当時需要が高かったこともあって、成約率も高く会社はどんどん伸びていきました。会社は順調でしたが、立ち上げた社長と高橋さんの方針が合わず、再び転職を行いました。  

 

西日本統括として忙殺される日々

その後高橋さんは京都のメーカーでECサイトの立ち上げを行いました。ここでは4年ほど働き、続いて総合コンサルに再び転職します。この総合コンサルは全国的な会社で、名だたるデベロッパーが取引先でした。高橋さんは大阪オフィスに勤めます。高橋さんは各取引先のECサイトの構築・運用を行いました。そして会社のIT系部門の西日本のトップを任されることになりました。西日本のトップに就任後は、大手商業施設のDXやネイティブアプリ、経路検索システムなどを導入し、これらのプロジェクト企画から運用計画までのコンサルティングに携わっていました。

また、販促マーケの責任者も行っていました。

その中では全国展開している鉄道会社のポイントシステムの共通化開発を行いました。これも企画段階から参画し、10社以上かかわる数十億円規模の超大型プロジェクトでした。3年と少しの間にわたってこちらの開発リリースを高橋さんがほぼ一人で主導して行いました。

このプロジェクトの進行中に、もう一つ大型のプロジェクトが重なりました。どちらのプロジェクトも高橋さんは責任者として打ち合わせに出たり、企画からアサインまですべて行ったうえで納期に間に合わせたりしなければならず、体をすり減らしていきました。  

 

体の限界

この生活を続けていたある日、朝起きてうがいすると洗面台が真っ赤に染まっていました。血を吐いていたのでした。プロジェクトが開発フェーズから運用フェーズに入ったころに、ついに体に影響が出てしまったのでした。

さすがに怖くなり、医者に行くと「今すぐ仕事を休みなさい」とドクターストップがでました。吐血の原因はわからず、おそらくストレスによる副交感神経の障害だろうといった診断結果でした。

さらに、歩いていても自分が傾きながら歩いている気分になるほどに体調に支障をきたしてしまい、心から命の危険を感じました。極め付きには脳に刃物を突き立てられたような痛みを感じてしまい、「あかん。」と総合心療内科を受診しました。

結果、適応障害と診断されました。「精神が強いため耐えてきたのだろうけど、からだに症状として出てきている。仕事を離れなさい。」と言われ、抱えている仕事の引継ぎを行ったのち休職することになったのでした。  

 

Whatever Shimogamoとの出会いと独立

ちょうどそのころ、Whatever Shimogamoと出会いました。高橋さんは高野周辺のマンションに住んでいました。家の近くをさんぽしていた時弊施設の前を通りかかり、「宿泊施設かな?」と思い覗いてみました。そしてシェアオフィスの説明を受け、内見し契約することを決めたのでした。

休職中はゆっくりと自分で仕事をすることを選びました。自分で会社を興し、ECサイトを立ち上げたのです。それがKAMODELです。

高橋さんはもともと新規事業の立ち上げも多く行ってきました。そしてそれらのほとんどを成功させてきました。そのためグロースアップに関してはまだまだなところがあると感じていますが、立ち上げには多少の自信がありました。そこから起業にも関心を持つようになったのです。  

 

起業を身近に

高橋さんは起業し何か新たなビジネスを始める際に、できるだけローコストかつ高利益率で始めたいと考えていました。起業は成功率が低く、失敗すれば多額の借金を背負うこともあります。ですが、インターネットを活用すれば初期投資額を抑えられます。自分がその道を作り、多くの人が挑戦する環境を整えることができたらいい。自分が起業家として自分のノウハウを余すところなく伝えることができたら少しずつ起業の挑戦者数が増え、起業の成功率が上がっていくはずだ。そう思いました。自治体や政府、金融機関、投資家は挑戦の手助けはしてくれますが、失敗や苦悩のサポートをしてくれるわけではありません。挑戦した後の成功率を上げることを考えないといけないのです。

 

Whateverでパンを入居者と食べるごりさん

Whateverでパンを入居者と食べるごりさん

 

KAMODEL

そこで考え付いたのがKAMODELでした。KAMODELはアパレル事業です。京都デザインで心躍るような日常を!!をテーマにしています。京都では古くから自然が人々の暮らしの身近にあり、季節の移ろいや野鳥をはじめとする多様な生物を着物などの身の回り品のデザインモチーフにしてきました。時代経過と共にデザインはより洗練されるも、どこか愛嬌があり親しみを感じるそんな日本独自の伝統文様を、KAMODELでは現代ファッションに融合しています。

ShopifyでECを立ち上げ、デザインデータを入稿し、厳選した業者に縫製をお願いする。こうしてできるだけコストを抑えつつ、創りたいものを生み出し売ることを考えたのです。さらに、顧客のターゲットは海外の方です。海外ECの運営企業で結果がしっかりと出ている企業はほとんどありません。高橋さんはKAMODELがそのパイオニアになることで、海外向けECの成功事例を作りたいと考えているのです。経済成長しない日本のなかでのみ勝負するのではなく、成長している海外マーケットで戦う。このノウハウも生み出したいと考えています。

KAMODELを伸ばしていくにあたって、最低3年はWEBマーケに時間がかかると感じています。まだ立ち上げたばかりなこともあり、手の込んだことはできていないですが、KAMODELのインスタグラムを多くの海外の方がフォローしてくれており着実な伸びを感じています。

つい先日、ニューヨークにあるセレクトショップからKAMODELの商品をショーケースに展示しないかとのオファーが来ました。悩みましたが、「物は試しだ。」と考え、実際のファッション市場でKAMODELの商品がどのように評価されるのかを確かめるために2023年10月からニューヨークのショーケースで展示を行っています。展示のおかげで、メディアや雑誌にも紹介されたのでした。

 

KAMODELの商品が掲載されたALVIE Magazine The Artist Edition Vol 711 November 2023

KAMODELの商品が掲載されたALVIE Magazine The Artist Edition Vol 711 November 2023

 

京都の再興隆を

前職で京都市とかかわりがあり、京都を愛している高橋さんは京都の社会課題を解決したいという思いを持っています。技術力はとてつもなくすごいのに、伝統工芸品が様々な理由で失われていくのを止めたい、そう感じていました。そこで、伝統工芸の技術をいかしバッグのハイブランドを立ち上げられないかなと考えています。技術的にはこれは可能であるため、しっかりと価値を伝えるべき相手に届けることができるかどうか、すなわちマーケティングが肝要だと考えているのです。その一つのチャネルとして、国際マーケットへの打ち出しを考えています。具体的には世界各地でおこなわれているファッションウィークへの出展、そして京都でのファッションウィークの開催です。  

 

さらに先の展望

将来的には、KAMODELの事業以外にも、資本の借り入れをして何かやってみたいと考えています。その一つが陸上養殖です。昨今、水産物はなかなか漁獲量が安定していません。高橋さんはこれを陸上養殖で解決できないかなと考えています。そして、その中でもさんまの養殖をやりたいと考えています。刺身の中でさんまが一番好きだからです。

また、陸上養殖と同時に、水をろ過して還流させて水耕栽培もおこなうアクアポニックスを実現できないかと考えています。これにより農業と漁業の両方で地産地消と雇用創出を課題解決できるのではないかと考えているのです。これから、資金目途や初期投資、ランニングコスト、キャッシュポイント、マーケット、技術要件などを徹底的に調べ上げて実現可能性を判断したいと考えているのです。

他にも、今までの経験を活かしたITコンサルを行っています。ECサイトの立ち上げや今までお世話になった方のIT系のお悩み解決など多岐にわたります。しかし、自分にPMの適性があるとはいえ、健康のことを考えるとITコンサルの案件を多く抱えるのは向いていないと感じています。子どもや家族のためにも70歳までは元気に働いていたいと感じている高橋さんは、ITの受注案件は最低限にして自分のやりたいビジネスを伸ばしていきたいと考えているのです。  

 

Whateverとごりさん

Whatever Shimogamoは先ず空間がいいとおっしゃいました。デザインや観葉植物、そのすべてが生み出す空間に魅力を感じています。そして何よりもフランクに入居者同士の付き合いができることを魅力と感じてくださっています。友人としての付き合いは勿論のこと、一緒にビジネスをやることもあり得ると考えられているのです。また、今までの通勤苦が本当に大っ嫌いな高橋さんにとって、家が近いことも大きな魅力なのだそうです。

 

Whatever Shimogamoメンバーとの初詣

 

まず、動け

高橋さんは考えずに行動することも重要と考える人です。それは、あくまで色々と考えて何かに取り組むことは重要だけれども、行動してから分かることも多いと考えているからです。そのため、すぐ動く、すぐ行動することを常に念頭に置いています。「思考は行動から生まれる」と、とある作品で言われるように、行動して初めて生まれるものもあると考えているのです。

 

笑顔のごりさん

笑顔のごりさん

 

最後に

以上、高橋さんの紹介でした。 高橋さんとお話ししたいという方はぜひWhatever Shimogamoまでお越し下さい。  

 

弊社インスタグラム

https://www.instagram.com/whatevershimogamo/  

その他の入居者の記事はこちら

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KAMODEL公式HP

https://kamodel.net/  

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お祭り男ごりさん

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  次回もお楽しみに  。

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