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【Whatever SHIMOGAMO入居者紹介】 株式会社YunY-Sun 大津 佳璋(おおつ かしょう)

2024.3.28

Whatever Shimogamo入居者紹介 株式会社YunY-Sun 大津 佳璋(おおつ かしょう)

Whatever Shimogamo入居者紹介⑥

Whatever Shimogamoの入居者様を紹介しております。

本記事では、株式会社YunY-Sunの大津 佳璋(おおつ かしょう)さんを紹介します。

 

Whatever Shimogamoでの大津さん

Whatever Shimogamoでの大津さん

 

Whatever Shimogamoの人気者

大津さんはWhatever Shimogamoで一番の人気者と言えるほどのいじられキャラです。 そんな彼の源泉は何なのか、どんな過去を過ごしてきたのか深堀っていきたいと思います。

 

寺の息子・佳璋

大津さんの実家は京都市左京区岩倉にある浄土宗のお寺です。そのため、圭充(けいじゅう)という戸籍上の名前と佳璋(かしょう)という後ほど親から授かった名前の2つを持っています。

 

大津さんは幼少のころからわんぱくでした。男4人兄弟の「2番目」で、3つ下の3番目の弟を子分のように扱っていたそうです。また、毎日家の裏の山に入り探検して、ケガして帰ってくる、そんな子供でした。

 

わんぱくボーイ、事故にあう

ある年の大津さんの誕生日、大津さんはおばあちゃんに誕生日プレゼントを買ってもらうためにおもちゃ屋さんに向かいました。おばあちゃんの車でうきうきしながら向かっていました。そしていよいよ到着。おばあちゃんは車をおもちゃ屋さんの向かいに止めました。誕生日でテンションが高くなっていた大津さんは、はしゃぎながら車を降り、おもちゃ屋さんの方に駆け出しました。

 

しかし、駆け出した大津さん道路を走る車に気づきませんでした。

鈍い音が響き、体が宙に浮きました。轢かれてしまったのです。

 

幼い大津さんは吹っ飛ばされてしまいました。

しかし大津さんはけろっとしていました。その後、病院に搬送されMRI検査などを受けましたが、奇跡的に無傷でした。大津さんは両親がとても泣いていたのを今でも覚えていると語りました。

 

わんぱく幼少時代

大津さんが通っていた幼稚園は大津さんの家の隣にありました。幼稚園の裏門が大津さんの家につながっていたため、毎日裏門から幼稚園に入り、運動場を突っ切って登園していました。わんぱく小僧・大津さんは運動が好きで、運動会のかけっこでは毎回1位をとっていました。楽しく外で遊んで、けがして、毎日を元気に過ごしていました。

 

お化けの宴会

幼少のころはお寺らしい事件も起きました。実家のお寺で大津さんはおばけの宴会を目撃したのです。皆が寝静まった丑三つ時、母屋の向かいのお墓から騒がしい声が聞こえます。ただの騒がしい声ではなく、狂言のようなリズムで、語り口が古風なもので不気味でした。あまりにもうるさいため、家族全員起きて、大津さんのお父さんがお墓の様子を見に行きました。しかし、お墓には誰もいません。家族全員キツネにつままれたような心地でした。

「幽霊が宴会してたんとちゃうかなあ。怖いというよりうるさかったなあ。」。

大津さんは当時を振り返ってこう述べました。あまり怖いという思いはなかったようですね。

 

お墓の様子

お墓の様子

 

ガキ大将・佳璋

大津さんは地元の公立小学校に入学しました。変わらずわんぱくでしたが、大津さんは入学後喧嘩ばかり。皆のガキ大将のような存在になりました。そのため、皆から慕われており、多くの友達がいました。誰かがよその小学校で揉めると、大津さんが尻ぬぐいに出向し、特攻隊のような役割を果たすなど、皆の頼れるガキ大将だったのです。

 

また、皆でチャンバラ遊びをしていたとき、皆は木の棒を武器にする中、大津さんはコンクリートの基礎固めに使う金属棒を自分の武器にしていました。そして、一通り遊び終わり、自転車で家に帰っていました。もちろん、金属の棒は手に持ったままです。

 

突如、持っていた金属の棒が自転車の前輪に吸い込まれました。次の瞬間、大津さんの視界はスローモーションになりました。視界が1回転し、地面にたたきつけられ、自分の上に自転車が落ちてきました。おなかがよじれるほど痛くなりましたが、大きなけがはなく、無事でした。丈夫ですね。

 

コンクリート基礎の金属棒引用:https://misasagi.sunnyday.jp/selfbuild/2014/01/13/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%88%E9%89%84%E7%AD%8B%E7%94%A8%E3%81%AE%E9%8B%BC%E6%A3%92%E3%82%92%E8%A6%8B%E3%81%9B%E3%82%8B%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AB%E4%BD%BF%E3%81%86/

コンクリート基礎の金属棒
引用:https://misasagi.sunnyday.jp/selfbuild/2014/01/13/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%88%E9%89%84%E7%AD%8B%E7%94%A8%E3%81%AE%E9%8B%BC%E6%A3%92%E3%82%92%E8%A6%8B%E3%81%9B%E3%82%8B%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AB%E4%BD%BF%E3%81%86/

 

不真面目少年・佳璋と日本史

勉強は全く真面目にしませんでした。授業中も喧嘩しているか遊んでいるかだったため、勉強する時間などなかったのです。しかし、そんな大津さんが好きな科目が一つありました。それは日本史です。大津さんは、伝記シリーズの「伊達政宗」を読んで、「なんてかっこいいんだ。」と感銘を受け、日本史を好きになったのでした。日本史のテストだけは、全く勉強しないで70点台をとっていました。

 

伊達政宗 引用:https://diamond.jp/articles/-/307627

伊達政宗 引用:https://diamond.jp/articles/-/307627

 

バスケと佳璋

小学校5年生からは、スポーツ教室に通い始め、バスケットボールを始めます。これは、学校のバスケコートでふざけているところを先生に見つけられ、真面目にバスケを始めてみないかと言われたのがきっかけでした。始めてみるとバスケは大津さんにとってなくてはならないものになりました。

 

中学での事件と坊主

大津さんは地元の公立中学校に進学しました。部活は、バスケ部に入り、高校までバスケを続けました。中学校でも相変わらずふざけてばかりだったため、1年生の時は先生に目を付けられ、ほぼ毎日生徒指導室に呼ばれていました。さらに、一度部活で問題を起こしてしまい、大津さんはこっぴどく叱られました。この事件の反省の証として坊主にするように指示され、大津さんは坊主にしますが、これがとてつもなく恥ずかしかったのでした。坊主にした次の日の天気は小雨でしたが、坊主を隠したくて傘をさすほど恥ずかしかったのでした。ビニール傘だったのであまり意味はなかったようですが……

 

負けたわんぱく少年

中学2年生のときもふざけてばかりでした。しかし、ある時ムキムキの大学生と喧嘩になり、負けてしまいました。「考えなしに吠えるのはこりごりだ。」と、この負けを受けて、真面目に生活するようになりました。

 

実は真面目な大津さん

バスケは素行が悪かったため、先生に嫌われており、試合にこそ多く出させてもらえませんでしたが、非常にうまいプレイヤーでした。練習にも真面目に取り組み、練習をさぼることもしませんでした。加えて、自主練も行い、大学のバスケコートで大学生と3on3をするなど上達に対して貪欲でした。

 

共学を目指して…

相変わらず、勉強はまじめに取り組んでいませんでした。体育と美術だけ4や5の成績で、他の科目はほぼ2でした。しかし、大津さんは共学校である公立高校に進学したいと思っていました。そのため、バスケ部を引退した中学3年生の夏から必死で勉強を始めました。塾にも通い、視力が悪くなるのもお構いなしに勉強し、公立合格を目指しました。さらに、自分を追い込むために、大津さんは滑り止めの私立高校を受験せず、背水の陣で公立受験一本で臨むことにしました。そして何とか合格を果たしたのです。決めたことに対してやり切ったのでした。

 

バスケに本気で取り組んだ高校時代

高校でもバスケ部に入りました。1年生からレギュラーメンバーに選出されるほどプレイヤーとして上手でした。しかし、部活動の顧問の先生が厳格な人だったため、大津さんとそりが合いません。そのため、部活をやめてはまたバスケがしたくなって復帰する、というのを繰り返していました。なんやかんやバスケが好きなのでした。

 

モテたが……

念願の共学校に進学した大津さん。そんな大津さんですが、ファンクラブが設立されるほどモテていました。しかし、硬派を気取っていたため、誰とも付き合いませんでした。女子にもモテたいけど、男子からもかっこいいという目を向けられたい、その結果誰とも付き合うことができなかったのです。現在、結婚を切望する大津さんは、「中二病だった、付き合えばよかった。」と後悔しています。

 

美大へ、背水の陣が大好きな大津さん

さて、高校3年生になり、大津さんは進路を考えます。実家の寺を継いで坊主になるのは絶対嫌だと思っていた大津さんは考えました。そして、美術の大学に行くことを決めました。実は大津さんは絵を描くのが好きでした。小さいころからドラゴンボールやスラムダンクなどの漫画の模写をするのが好きだったのです。そして、大学で勉強したいことも特になかったので美大もしくは芸大を目指そうと決めたのでした。

 

芸大を目指し始めてから一日10時間デッサンの練習に取り組みました。毎日絵を描くことは楽しく、大津さんにとっては苦ではありませんでした。そして、高校受験の時と同じように、京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)一本のみの受験を行い、見事合格しました。

 

京都造形芸術大学

京都造形芸術大学

 

アーティスト・大津さん

芸大では油画を専攻していました。大学時代はひたすら絵に打ち込んでいました。公募展に絵を出して賞を受賞したり、グラフィティアートにはまりライブペインティングをしたりと楽しく絵を描く生活をしていました。ライブペインティングは主にクラブなどで行い、大盛況をかっさらっていました。また、アーティスト活動も行っており、絵をかいて個展を開き、絵を売っていました。さらに、デザインの勉強も行い、イベントのフライヤーのデザインなどを行いました。

 

大津さんは、レゲエとヒップホップのイベントを主催する団体に所属していました。そのため、窪塚さんなどに出演してもらう大きなイベントのデザイン回り全般を担当しました。これは今後の大津さんの働き方に影響を与えています。

 

大津さんの作品

大津さんの作品

 

アルバイター・大津さん

大学時代はアルバイトにも精を出していました。京大の大学食堂などでも働いていましたが、大津さんが一番心に残っているバイトは、琵琶湖バレイの雪づくりです。このバイトでは、琵琶湖バレイの小屋に閉じ込められて、雪を作っていました。バイト中は暇な時間もあったため、『竜馬が行く』を読んでいました。そのため幕末時代にどはまりしました。

 

 

ホノルルマラソンと大津さん

大学時代の大津さんは様々なことにチャレンジしていました。その一つに、ホノルルマラソン完走があります。大学時代、当時の彼女と一緒に出場し、なんとか八時間半かけて完走しました。10キロ走ったくらいで足が痛くなり始め、やめたいと思いました。しかし、やめたいと思っても英語がわからないからやめるわけにもいかず、またホテルの場所などもすべてわからずわかる彼女は先を走っているため、とにかく走り続けました。驚くべきは、一度も座り込んだり立ち止まったりしなかったことです。そして見事、8時間半かけて完走しやり切ったのでした。

 

大学時代の大津さん(写真左)

大学時代の大津さん(写真左)

 

絵描きの大津さん

大学4年生になり、大津さんは就職を考えます。その中で、自分はサラリーマンとして生きることは向いていないと感じました。なぜならば、大津さん自身の性格的に、誰かの指示で動く際にも、自分の経験に基づいた納得や自分で導き出した理解がないと動くことができないからです。ゆえにやりたいこともなく、まだ絵をかいていたかったため、絵描きとして生きることに決めました。アルバイトで日銭を稼ぎつつ、クラブのライブペイントやギャラリーでの個展開催などを行っていました。楽しい毎日でしたが、お金と社会的地位がないことに苦悩していました。

 

大津さんの作品(モチーフ:大津さん)

大津さんの作品(モチーフ:大津さん)

 

大津さんの作品

大津さんの作品

 

就職を考える大津さん

28-29歳まで絵描き兼フリーターとして生活していましたが、20代後半でもうすぐ30歳になるのにこのままでいいのだろうかと思い、就職を決意します。就職し、能力を身に着け、いずれ独立してやろうと考えたのです。

 

元々、グラフィックのアルバイトをしていましたが、グラフィック業界は今後自分が独立することも視野に入れると不安だと感じ、Web系の企業に就職しようと考えます。Web系に就職するにはスキルが必要だと考えた大津さんは、ハローワークに行き職業訓練を受けました。そして、就職用の自分の制作物をつくり、就職先を探しました。そんな中、見つかったのがとあるWeb系のベンチャー企業でした。

 

 

憧れの人との出会い

当時、そのWeb系のベンチャーは女性社長と役員の10人規模で経営していました。大津さんはこの企業に話を聞きに行った際に、ある役員の方に心酔しました。その人は、経営にも関わりつつ、営業や企画のディレクション、実行などすべてを行う人物でした。また、大津さんとその役員の方の歴史好きの趣味が共通していたことも、大きな決め手でした。大津さんはWeb系の制作物として、歴史系のサイトを製作して持ち込んだのですが、役員の方がこれを見て大津さんと意気投合し、まずはアルバイトとしてジョインすることに決めたのでした。

 

 

すべてが新鮮な初就職

当時の会社は事業として、ASPのファシリテーション、Web制作や運用全般を行い、新規事業としてサイネージ広告の運用も行っていました。実際就職すると、会社では職業訓練でやったことは何一つ役に立ちませんでした。やはり、何事も実践が一番と大津さんは感じました。

 

大津さんの一週間は、週3日web系の仕事を行い、週2日サイネージのテレアポで何百件電話する、というものでした。やり切る精神は身についていたため、しっかり行い成果を出すこともできました。初めての就職でどの仕事も新鮮に感じ、毎日楽しく働いていました。ビジネスメールを書くことさえままらなかった大津さんでしたが、ビジネス基礎からWebのこと、営業や企画まで、様々なことができるようになっていきました。そして、入社半年後に正社員として改めてこの会社にジョインすることになりました。

 

ついに正社員に、そして…

正社員になって、はじめてディレクターとデザイナーを兼任しました。現場の仕事からマネージャーとしての仕事まで、自分の意志で独立を視野に入れ、何でもやっていました。また、アルバイトとして入社してからずっと、役員の人を鑑として追いかけていました。その人に近づくために、今の自分が分からないことをなんでもしてやろうという気持ちで日々仕事に励んでいたのです。

 

急転直下

しかし、正社員になって一年たったある日、大きな事件が起きます。役員の人が体調崩して、退職することになったのです。役員の人は莫大な仕事をこなしていました。その人が抜けた穴はとても大きいものでした。営業も誰もいなくなり、中途で雇ってもすぐにやめていく、そんな状況が続きました。ディレクションできる人材が大津さんと社長のみになり、残りは作業スタッフしかいない、そんな状況になりました。ゆえに、大津さんは役員の方がやっていた仕事を引き継いで、急に会社全体を見る羽目になったのです。

 

満身創痍

ここから体をすり減らして働く毎日が始まります。まずWebサイトの運用案件が60件以上ありました。これは、運用アナリティクスなどの数字を見て、レポートを書いて、施策を提案し、コンサルするというものです。もちろん、一人では60件も回るわけありません。朝から夜の8時までお客さんの対応を行い、電話のかかってこない時間で自分の資料作成や作業スタッフの手伝いをする生活になりました。毎日3時に寝て、9時半に出勤する。このような生活が1,2年続きました。大津さんは日々に忙殺されながらも、独立の糧になる、自分がいなくては部下が困ってしまうと自分を鼓舞して、クレーム対応なども含めたすべての業務に必死に取り組んでいました。

 

退職する大津さん

しかし、気づくと病院でした。大津さんは過労で倒れてしまったのです。のどから膿みが出て、高熱が続きました。1週間ほど点滴生活を強いられてしまいます。少し休もう、そう思ったのも束の間、入院した次の日にはお客さんが病院に打ち合わせにやってきました。

 

「この職場やめよう、死んでしまう。」

こう思い、大津さんは退職と独立を決意します。

 

そして、会社を退職しました。

余談ですが、大津さんは自分の送別会で部下のけんかを止めた際に、手を粉砕骨折してしまい、沖縄に行こうと思っていたのに、2か月の治療を余儀なくされてしまいました。

 

送別会で折れた手

送別会で折れた手

 

フリーランス、そして起業へ

退職後はフリーランスとしてWeb系の仕事を受けていました。退職して2か月後には仕事の依頼が来ました。フリーランスとしての生活は楽しかったと言います。何より、生活が楽になったと。周囲には、以前よりもいい笑顔になったと言われました。また、Whatever Shimogamoに入居されているご友人のダンスイベントのフライヤー作成も行いました。

 

Whatever Shimogamoの現入居者のご友人に作成したフライヤー

Whatever Shimogamoの現入居者のご友人に作成したフライヤー

 

フリーランスとして活動する中、IT導入補助金の相談の案件が増えてきました。そのため。いろいろなことを勘案して2019年、起業を行いました。翌年、世界は未曽有の事態に陥りました。そう、コロナの爆発的流行です。これにより、オンラインショッピングなどのIT系の需要が爆増しました。ITのコロナバブルです。

 

ITベンチャー退職後の大津さん

ITベンチャー退職後の大津さん

 

YunY-Sunに込めた思い

大津さんは自分の会社の名前を「YunY-Sun」と名付けました。これは、大学時代にアパレルブランドを立ち上げはしたものの続かなかったときのブランド名から名付けました。

 

Yun-Y Sunの理念は、「士魂商才の気概を持ってお客様と社会に役立ち末永く発展すること」です。もともと日本史が好きな大津さんは伝記などの歴史上の人物を掘り下げる本が大好きでした。そんな大津さんは、渋沢栄一の「論語と算盤」を読み、感動したのです。そして、明治時代の経営者と今の経営者、その考え方の根底にあるものは共通していることに気づきます。会社を大きくすること、会社を通して事業を行うことは、以前は役人を支え、国を支えるため、そして社員や家族、ステークホルダのためにすることでした。これは今も共通で、大きな社会も小さな自分の大切な人も幸せにしていくために、会社はあるのだと気づいたのです。何よりも関わる人すべてが「いい」状態を目指しているのです。

 

YunY-Sunロゴ(大津さんデザイン)

YunY-Sunロゴ(大津さんデザイン)

Whatever Shimogamoと大津さん

Whatever Shimogamoを見つけたのは、独立後でした。元々は自宅を事務所もかねて使っていたのですが、家を出てオフィスに通う方が効率的だと感じ、オフィスを探し始めました。そして、ネットで検索したところ、当時完成直後の弊施設が目に入りました。実際に見てみようと、内覧に来た大津さん。なんと栄えある一人目の内覧者でした。また、楪葉と同い年・寺出身だということで意気投合し、初内覧、初対面で2人はかなり仲良くなりました。

 

大津さんはその場で入居は決めず、一旦持ち帰ることにしました。その後、他のオフィスを見に行ったり、仕事が忙しくなったりしたこともあり、半年ほど時間が経ちました。

そして半年後、改めて楪葉に連絡し、入居を決めました。入居の決め手はシャワーでした。

 

「Whatever Shimogamoでの生活はとても好き。(皆さんに)よくしてもらってありがたいな。」大津さんはしみじみと述べます。

 

Whatever Shimogamoの入居者と大津さん

大津さんはシェアオフィスに入居するのは今回が初めてですが、異業種交流の機会がたくさんあることや定期的にイベントがあることはすごく嬉しく、楽しい、そしてこれは他のスペースにはない利点だと考えられています。実際に大津さんは、入居者の方と一緒に仕事をすることも多く、Whatever Shimogamoらしい働き方を体現されています。

 

大津さんの大切な価値観

大津さんが、働くうえで大事にしていることは、人に寄り添うことです。お客さんが喜ぶことを第一に考え、見積もりの範囲外の業務まで引き受けたり、最大限できることをやったりとしているのです。

 

生きる上では、「義理人情」を大切にしています。約束を守るのは人として当たり前のことですが、大きな約束は勿論のこと、飲みの席などでの小さい口約束も必ず守るようにしています。これの積み重ねがきっと大切なんだと考えているのです。

さらに、誰かと接する際には、必ず自己開示を心がけています。自己開示を自分がしないと、相手にも自己開示してもらえず、信頼関係を築きにくい。そう考えています。

 

Whatever Shimogamoでポーカーする大津さん

Whatever Shimogamoでポーカーする大津さん

 

これからやりたいこと~お寺の息子として~

これから大津さんは、会社で新規事業として、お寺に関するシステム作りをしようと考えています。大津さんは寺の生まれとして、寺を今の時代に職業の枠にはめるのは無理があると考えています。職業ではなく、元々寺が持っていた町や地域のコミュニケーションハブのような機能、集会所のような機能を復活させたいと考えているのです。

 

結婚したい大津さん

そして最後に一番大切なことです。大津さんは、仕事以外では何よりも結婚を目標に生きています。結婚し、幸せな家庭を築きたいと考えているのです。子供は2人、ラブラドールレトリバーを1匹、グッピーを10匹、洋風の家。そこで子供から父上、母上と呼ばれてみたい。そんな温かい和気あいあいとした家庭を目指しているのです。

 

快気祝いで照れる大津さん

快気祝いで照れる大津さん

 

最後に

以上、大津 佳璋さんの紹介でした。

Whatever Shimogamoのムードメーカー兼いじられキャラですが、事業や人に対して武士のような熱い思いを持つ方です。

インスタグラムでも大津さんを紹介させていただいております。よろしければご覧ください。

 

株式会社YunY-Sunコーポレートサイト

https://yuny-sun.com/

その他の入居者の記事はこちら

https://whatever-produce.com/member

 

次回の入居者紹介もお楽しみに。

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